2019年 01月 11日
新所 |
どうも最初に見かけたときから気になっていたのが、この山です。どう見ても古墳。
新所原が名前の通り新所の人々によって開拓されたものであれば、奈良時代の新所は街道の重要地点だったのではないでしょうか。明治維新では新撰組隊士中島登などが新所原で開墾を始めた、とありますが、用水の無いところで苦労したことでしょう。
今日は入出に煮染を買いに出掛けました。橋のたもとの「やまの」は作者直売。なので時間がかかります。作品へのリスペクトを持ち、作者との会話を楽しむ人向き。そうでない人は高級百貨店へ行って
さすがお目が高い。
式の定型喜ばせを買うのが宜しいが、売っている方は自分が何を売っているかも知らないケースが多い。
帰りに気になっていたこの山の周囲をお散歩してみました。
山の東西にお寺が三ヶ寺あります。
奈良時代の街道は「駅路」と「伝路」が定められていたとありますが、物流については、方法は問わないから定めの期日に役所に税を持ってくれば良い、ということでしょうか、国家の根幹である物流には定めがないのですね。そこに想像の余地があります。
平安時代の物流は田んぼの中の水路を伝い、一番低い峠だけを人か馬の背で越える、というものだったでしょう。東国から浜名湖を船で渡して新所・日ノ岡あたりで船から下ろす。そしてこの道を辿ると岡崎から二川に達する、という具合です。浜名湖が国境ではなく、高師山が国境なのは、水が無いので人家がなかった、ということもあるでしょう。新所ー二川ルートの合理性は明治22年に東海道鉄道が計画された時にも選ばれました。
愛知県陶磁美術館には国の重要文化財…戦前でいう国宝に「久安二年(1146)七月廿八日申時造了清原重安造之」「遠海新所之立焼」という銘を持つ「焼締陶製五輪塔形経容器」があるそうで、平安時代の「遠海新所」には産業が発達していたようです。経筒も新所の三ヶ寺で使っていたものかもしれません。
当時は東海地方ではなく遠海地方と呼んでいたのでしょうか。延喜式では三河国までが「近国」で遠江国は「中国」に分類されているそうですが「遠海新所」という呼び方も面白いと思います。三ケ日の初生衣神社から毎年伊勢神宮に貢進される絹布も、新所を通って飽海河口から伊勢に向かったのかもしれません。
190117
湖西市史資料編第3巻
昭和57年
湖西市史篇さん委員会
に旧新所村村役場保管になるお寺の「調査表」というのがあるので、引いておきました。
明治二十八年四月五日内務省訓令第3号古社寺調査事項・標準により別冊調査票之通取り調べ候間此段御届申上候也
というものです。
とあり、他に新所では馬頭観音のお寺である
の調査表が残っています。妙経寺のものが無いのは本山吉美妙立寺のところに記されているのかもしれません。
明治28年というと近代兵器を装備した日本軍が近代戦争に疎く、兵器はともかくソフトウェアが三國志の頃とあまり変わらない軍閥頼りの清国軍に勝利して、国民が酔痴れていた頃でしょう。そんな国民を尻目に内務省など国家機関は、幕藩時代に国中に張り巡らされた統治機構のちゃぶ台返しを進めていました。お寺を丸裸にする、というのもその一環でしょう。秋葉山別院可睡斎でも日清戦争を利用して「活人剣」の記念碑を建てたり、日露戦争の後には「護国塔」を建てたりというのは、そうした深慮があったためではないでしょうか。
神仏分離・廃仏毀釈の波が新所にも押し寄せていたことと思われます。法泉寺山門の説明に
高家旗本大澤基寿は本来の5,000石を、今後の開墾見込みを加えた1万石と詐称して堀江藩を作ったのが、廃藩置県の折に虚偽が露見して没落した。
とありますが、これも旗本でなければお咎めなしという場合もありそうで、新所原へ開墾に入った旗本連を狙い撃ちにした様な感があります。他のお寺は、とにかくお咎め無きよう、聞かれたことだけに答えるという最小限のもので、由来といったところは詳しくありません。もう少し昔のことがわかるような資料から、古墳時代の新所の様子が解ると良いのですが。
by dehoudai
| 2019-01-11 21:56
| まちづくり
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