2018年 11月 07日
To Japan To Lay A Gohst9 |
防弾少年団というのがこの写真の付いたTシャツを着ていて、テレビ朝日から出演を延期されたそうだ。まあ未来の友好のために過去を明らかにするのか、俺がお前のいうことを聞くか、お前が俺のいうことを聞くか、のために過去を利用するのかが、日韓のねじれの背景だろう。プロダクションにしてみれば、歌番組に出るよりニュースに取り上げられる方が宣伝効果ははるかに大きい、というところだろう。
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そして
斯すれば 斯なるものとは知りながら
止むに止まれぬ日清戦争となり、
止むに止まれぬ日露戦争となり、
止むに止まれぬ世界最終戦争となり、
止むに止まれぬ満州事変となり、
止むに止まれぬ日華事変となり、
止むに止まれぬ太平洋戦争となって、
原爆が投下された。日本民族は成り行き民族なのだ。
シンゾー君など自決といっても「私のいう通りにしなさい。」と言いたいだけで、中身は成り行きの人なのだ。シンゾー専用機で世界各国を周り、首脳会談に臨むのだが、中身のない成り行きまかせでは
あいつは一体何を言いに来たのだ?
と首を傾げられていることだろう。
そして都合の悪いことは隠し、シュレッダーにかけてしまうという体質も全く変わらない。モリ・カケの次はタヌキとキツネである。
1945年9月18日の時間はおそらく午後4時頃、「日本」を離れた著者は「沖縄」で飛行機の順番を待ち、ルソン島であちこちとテント兵舎をたらい回しにされ、太平洋の真ん中を最新鋭艦の推進軸の故障で漂い、ゴールデンゲート橋をくぐると米国流の善意のお祭り騒ぎで揉みくちゃにされ、、、英国に着いたのは11月19日(母の誕生日)だった。
どうも著者は米国式には辟易としているところが見受けられる。沖縄からマニラに飛んだB24の機長は19歳、銃手は20歳ということで、まあオリンピックを見ればその辺りが運動神経の一番研ぎ澄まされた年頃だろうが、英国人からみると米国式にはそこから先が無い様に見えるのかも知れない。
第10章では著者は20数年後、水巻町を再訪する。炭鉱夫だった彼が見た、美しい自然の中で、貧しいけれども皆が一生懸命暮らしている日本はすでに消え、米国の文化的植民地となっている。
彼の目的は"To Lay A Gohst":豚に会って、それまでの恨みを洗い流すことだったのだが、ここでも町長始め県知事の代理などから、大歓迎を受け辟易とする。著者は大歓迎の金ぴかの面々の中にも、豚をはじめとする普通の日本人ではなく、かっては汚れのない軍服に身を包み、平民を騙し続けていた戦前のエリートの影を見ていたのかも知れない。
北朝鮮にしても「本当は東京ディズニーランドに行きたい。」程度だ。
困ったちゃんは「非常時には国民全体の福祉が個人の自由に優先する、」から「私のいう通りにしなさい。」という成り行きの人だ。頭が悪いので「民主主義と「多数決」を取り違えていて、選挙制度をいじり回し、国民の1/3をもって2/3と言い張る。
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TO JAPAN TO LAY A GOHST
Peter S Rohdes 1998
The Changi Museum 2008
p193
第9章
家路
英国人とオーストラリア人の捕虜は、やや少数の米国人捕虜とともに、1945年9月18日火曜日午前5時30分までにキャンプを離れる準備をするよう命じられた。しかし、その頃全てのことがそうであったように、約束は常に守られず、私たちがキャンプを出たのは9時半過ぎで、みすぼらしい私物を下げてキャンプ正門前に並んだ荷車の列に乗り込んだ。"Aye, aye"と誰かが言った。「最後までクソだ。」荷車はきれいなものとは言えなかったが、有難いことに少し乗るだけで降りて、折尾駅のプラットホームに立っていた。客車は個室に分かれたもので、2年前の到着の時程豪華な物ではなかったが、それでも快適で、清潔にしてあり、荷車から降りるとすぐに出発した。列車に乗り込むのはちょっと面倒だったが、気楽だった。
私は末松少佐がプラットホームの端に立って、一応握手しようとしているのに気付いたが、握手に応じるものは少なかった。私もこれ以上彼に関わるのは嫌だった。汽車が発車すると、彼はまだホームの端でわびしく孤独な姿で立ち尽くすのが見えた。その時にはそれと知らなかったが、彼がその後24年間に見た最後の日本人だった。
キャンプ周辺と最近の門司までの海岸線しか日本の田舎というものを見たことがなかったので、昼間の旅は楽しかった。旅をしている時と、その時のノートをタイプする間には長い年月が過ぎ、私はその間に日本と九州を4度訪れ、そのうち3度は、今は水巻町という町になっている、炭鉱のある村まで行ってみた。行ってみると記憶に残る景色はごちゃ混ぜになっていた。しかし140マイルの汽車の旅では、いまだに鮮明な記憶が残っている。福岡を過ぎて線路が海の近くを走ると、右手の窓の外の海岸沿いのあちこちに小さな漁村が散らばっていた。ほとんど例外なく建物は壊れ、間近にあった台風によって粉々になっていた。台風はまるで「龍殺」の原子爆弾の仲間で、無数の焼夷弾は言うまでも無く、全てがこの国全体に対するちょっとした復讐、即座の天罰であるように見えた。これは良い考えで、客車の中の戦友たちの間に、様々な意見が飛び交った。しかし列車が進むと、目に見える被害はさらに広がって行き、ほとんど完全な破壊となった。そして再び様々な意見が飛び交ったが、私の考えは自然に「可愛そうな、小さな者たち」という方へ傾いた。しかしそうした哀れみを受け入れたにしても、すぐにそれを頭の奥に押し込んで切り離し、目前の光景を熟視した。これらの村々がいかに絵のような美しい風景だったか、それをスケッチする機会があったら、と考えたことを思い出す。最も惹きつけられたのは古い日本の田園風景の名残だった。私は比較的最近そうした村を訪ねたことがあるが、もはや絵のような景色は消えて「ジョーの店で召し上がれ」の類の、赤と白の看板で埋め尽くされていた。
突然、何の警告もなしに、列車は歴史上2発目の原爆が爆発した場所に来た。幅1マイル程で、両側を1,500フィート程の山並が続く低地を進んだ記憶がある。列車がナメクジのようにゆっくりと進んだこの谷間は長さが5マイルか6マイルで、そこで目に入ったものは遠くの山肌に至るまで完璧な破壊だった。
ある点では、その光景はこれまでに記した八幡、小倉、門司などと同じ九州北岸の灰褐色の焼けた瓦の中からコンクリートの水槽やぐちゃぐちゃになった鉄骨の残骸と同じだった。しかし私たちの注意は次にもっと重量のある構造物のとても奇妙な姿が原子爆弾の力を示していることだった。重量鉄骨の構造は奇妙な形に曲がり、鉄筋コンクリートの建物は砕け散って大きな塊が異常な角度でぶら下がっていた。私の目を特に引きつけた異様な光景は大きなコンクリート製の煙突の上部が溶けて曲がり、船の通風筒のような形になっていたものだ。このとき私が出会った景色の印象は、大部分が冬のヒースの茂みの中の、野バラのようなものだったのを覚えている。
生命が何も見当たらない、恐ろしい場所を通り抜けるのには20分程掛かり、客車の中では「Gosh,見ろよ。」という声とともに両側の窓と反対側の窓の間のダッシュが続いた。この時の私達には放射能とその恐ろしい影響についての知識は何も無く、その証拠も目に見えなかった。私たちが目にしたのは通常の爆弾や焼夷弾による被害と似たようなもので、ただそれが何倍も大きな破壊力と高熱を伴っていたことだけだった。
列車が谷間を進み、景色に驚く間に、私は目には目をという満足を基礎に、無数の普通の人々に対する哀れみが湧き、思考と感情のバランスを取ろうとする精神作用が働いていることに気付いた。次にそれまでに目にしたものの中からチャンギの海岸で見た針金で繋がれた女と子供の死体、シンガポールの路上にあった、死んだ後で強姦された死体、南京事件のニュース画像、飢えと病気で死んでいった多くの戦友、キャンプの裏山にあった、敵上陸の際に私たちを生き埋めにするためのU字型のトンネルといったものが思い出された。
そして私は長崎に住んでいた普通の人々のことを考えた。今は死んでしまった男と女は、私が八幡や小倉で言葉を交わした親切な人々と多分同じような人々だろう。しかし、それにしても、その人々は私たちを楽しげにあのトンネルに閉じ込めて、石のような顔と爬虫類の目でそんなことはなかったと言い張る同じ日本人なのだ。彼らは「他に手立てはなかった。」という教義に、明らかに侵されていた。これは恐ろしい考えだ。私は一つには原子爆弾に感謝した。そして長い年月の後で、この考えが変わらないと付け加えるのが公平だろう。私が今心配するのは、日本国が、少なくとも日本政府がまた別の「トンネル」を作り、天皇の名の下に何を行ったかを、次の世代の目から隠し、封じ込めることだ。
長崎駅を通り抜けたことは記憶に無い。おそらく原子爆弾で吹き飛ばされていたのだろう。汽車はやっと桟橋から20フィートほど高くなった長いプラットホームに止まり、横付けになった灰色の軍用船が見えた。私たちは私物を持って列車を降りた。私は背中に大きな荷物を背負い、肩からはケースとない小さなアコーディオンが下がっていた。どこかでブラスバンドの演奏が聞こえた。肩を叩いたり、握手をしたりする米軍人の指示で、プラットホームに沿って左に曲がり、長いプラットホームの端に向かった。
そこに着くと白い布の掛かったテーブルで区切りがしてあり、テーブルの向こうには3・4人の白人の女性がいた。太文字は女性達に出会った時の私と周りの者の心境を表している。厳正に、正直に言えば誰も可愛くはなかく、どちらかと言えば頑丈な作りの女性だったが、そう、3年半の間白人女性を見たことがなかった私達元捕虜にしてみれば、にとっては、とてつもなく素敵に見えた。私がおずおずとテーブルに着くと、白い女神が私の右手にとても熱いコーヒーの入った紙コップを渡してくれた。「どうぞお取りください、会えてうれしいわ、あなた。」そして左にいた次の女神が、私に触った。
「はい、あなた。会えてうれしいわ。手の平を出して。」左手の手の平を出すと「大きく開いて。」と言って指の上に熱くて甘い大きなドーナツを3つ乗せてくれた。どうしよう?私達は優しく無情に50ヤードほど離れた建物に連れて行かれた。コーヒーは飲むには熱過ぎ、ドーナツをやっつけるには左手を上げて噛みつかなければならなかった。私が建物に着く頃には指は焼け、紙コップにはまだ沸騰したてのコーヒーが2/3程残っていて、中指は砂糖でベタベタ、顔じゅうに砂糖が飛び散っていた。ちょっと悪かったが残りのコーヒーとドーナツを捨てて建物に入った。
入るとすぐにテーブルが並べられていて、白いオーバーオールを着た米軍の水兵が終わったら後で返しますと言って、持ち物を受け取った。背中の荷物には荷札がつけられ、私のアコーディオンを入れた大きなキャンバスの袋に一緒に入れられ、両方とも白い粉がたっぷりとかけられた。何か聞くとシラミなどを殺すDDTだということだった。私はその白い粉が2年半前にあればなあと思い、そう言った。
次に我々は手に入れてからひと月足らずで、申し分ない状態だったにもかかわらず、着ている物ものを全て脱がなければならなかった。それは手早く大きな紙袋に入れられて焼却炉行きだった。次に全裸で二重のエアロックドアを通り、蒸気に満ちた部屋に通された。湯気で古い眼鏡が曇った。二人のがっしりした、同じように裸のアメリカ兵が私を捕まえて押され、というか案内され、3連シャワーの下で石鹸で洗われ、身体中をこすられた。脚を片方づつブロックに乗せ、一人が体を支える間にもう一人がそれ用の細いブラシて指の間を洗った。同じことが手の指でも繰り返され、丁寧にへそと脇の下、股でも行われた。これには20分ほど掛かり、肩を優しく叩かれて「終わり。」と告げられ、別の二重ドアから乾燥室へと指示された。ここでは別の二人が私をタオルで拭き、角を曲がって次の「部屋」へ行くよう指示したが、それはかっては長い廊下だったらしく、建物の中にコンパクトに収まるよう、背中合わせに二重になっていた。角を曲がると一度に数人が飛びかかってきた。全員が白衣でガスマスクをつけ、大きな注射器からDDTの粉を吹き出していた。ぬるま湯で気持ち良くなった子どもの様に、身体中、特に足の指、へそ、股を丁寧にDDTの粉を吹きかけられた。
次の部屋も広い廊下の様なところで、中心に沿ってテーブルくらいの高さの寝台が3-4台あり、それぞれの寝台には白衣を着てマスクをつけた医者が付いていた。手足が異常無く、動くことを確かめると、胸に聴診器をあて、身体中を指と拳で突いた。そして最後に「大丈夫、グッドラック。」と言われ、裸で次の角を回った。戦友の中には手足を失ったり、衰弱していて「大丈夫。」でない者は病院船に送られた。彼らがどうやって乗船したのかは分からない。
次に長いカウンターでベスト2枚、パンツ2枚、ラバーソールの革靴(長い間野外観察に出かけるときにはこれを使っていた。)、カーキ色の作業ズボン、大きなパッチポケットのついた濃緑色の防風ジャケットを受け取った。シャツ、靴下は無かった。大きな布製の衣類袋も受け取った。新しい衣服を着ると私の痩せた体にはダブダブで、長い廊下の終わりでアコーディオンと大きな袋を拾い、建物の外に出た。
私は20フィートほど下がった小さな船着き場に通じる、木製の段の上に立っていた。右手には煉瓦積みの高い擁壁があり、左には病院船の灰色に塗られた船腹があった。その向こうにはもっと小さな軍用船が見えており、後で米国海軍駆逐艦ワズワースだと判明した。波止場には元捕虜が溢れており、その間に少数の米兵が混じっていた。皆静かにしゃべっていたが、その声は全体があたりに充満して大きな音になっていた。段の下にはさらにテーブルが並んでいて、さらに大勢の、少し年かさの、濃紺の赤十字の制服を着た米国女性がテーブルに付いていた。ここで私は再びコーヒーを出されたが、ドーナツの方は遠慮した。女性たちが私に小さな巾着袋もくれ、中には歯磨き、歯ブラシ、爪ブラシ、プラスチックの箱に入った石鹸、櫛と小さな鏡、便箋と封筒、鉛筆、20本入りの「キャメル」シガレットとブックマッチが入っていた。
私は群衆の中を歩いて後ろの壁際に行き、荷物をおろしてシガレットに火をつけた。大方の元捕虜達は、顔だけは知っていたが、その表情は何か違っていた。まだみんな異様にやつれていたが、それまで苦しさで歪んで笑いのなかった顔が、生き生きと輝いていた。そこには5分ほどしかいなかったが、若い米国海軍士官が自己紹介も何もなしに話しかけて来た。彼の名前も職務も知らないが、私のこれまでの経験に興味津々だった。いうまでもなく私はそれを話したいどころではなく、しばらく話し込んでいると、別の士官が来て「お話中失礼しますが、出航しますので艦においで頂くのは如何でしょう。」周りを見ると船着き場は空で、私が最後の元捕虜だったのを見て困った。士官は船着き場沿いに私を案内し、元気に仲間の質問のいくつかを繰り返した。やっと駆逐艦に乗艦すると仲間の元捕虜が何十人も乗っていた。士官は丁寧に挨拶をして立ち去り、数分後に我々は長崎水道に向かって動き出した。1945年9月18日の時間はおそらく午後4時頃、ついに私は日本を離れた。
以下略
by dehoudai
| 2018-11-07 10:16
| ほん
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