2018年 10月 15日
To Japan To Lay A Gohst7続き |
この章長文なので続きです。
戦争の思い出は
腹が減った。
という日本人は多いです。
有名なのは元琉球民謡協会長登川誠仁先生の「軍歌たべたいなあ」でしょう。BlueNoteを模したジャケットがオシャレです。
娑婆でもこの通りですから兵隊はさぞ、という感じがします。
戦争末期、NHKの小野文惠アナウンサーのおじいさんも犠牲になったフィリンピンでは
自活自戦永久継戦ノ態勢ヲ確立、
要するに武器弾薬も食糧もないが、各自永久に戦え、というところまで行っていたそうです。兵隊さんでさえそうなのですから、敵軍捕虜にとってはそれ以下の扱いが行われたのではないでしょうか。
便所紙の話は興味深かったというか、気の毒でしたね。今の人は白いふかふかしたトイレットペーパーしか知らないでしょうが、我本家では昭和30年代になっても、便所紙というものはもったいないので使わず、書き損じの習字紙か、それがなければ古新聞を揉んで使っていました。尻を拭くと黒くなります。我が家ではB5くらいの「吉原のちり紙」で、やはり古新聞などを溶かして作ったのでしょう、薄灰色でたまに新聞の活字がきれいに残っていました。
181019
この後筆者は落盤事故に巻き込まれますが、筑豊では日炭高松は比較的新しい鉱山で、設備も最新式であり、他の炭鉱に比べれば事故は少なかったようです。
日炭高松でも強制連行された朝鮮人が働いていたようですが、日本人側の指導員や坑夫たちはどういうわけか捕虜に対しては寛容な態度をとっていたそうです。
飯塚には麻生鉱業があり、10,000人近くの朝鮮人が強制連行されてきたようです。そこから200人以上の死者を出し、麻生鉱業は巨利を得ましたが、遺骨は韓国人・朝鮮人側からの言い方によれば「放置」されたままだそうです。
体操協会の塚原夫妻もそうですが「心からのおわび」というのを口先だけでやっても意味はなく、日本国民の誰もが暗い歴史の上に現在の繁栄があることを知らなければ「友好」もないでしょう。とはいえ、韓国人・朝鮮人の作法では、友好の基礎にするために事実を明らかにするところを通り過ぎ、李朝600年理気論の伝統に基づいて、言葉の綾を形而上学的に磨き「口で敵をやっつける」という趣になってしまうのも困ったことです。
興味深いのは日炭高松にあった「山の神」が大三島にある「日本総鎮守」大山祇神社だったことですね。この神様は口笛が嫌いで、船に乗っていても口笛を吹くと嵐を呼ぶと信じられてきました。炭鉱でも同じように口笛を吹くと落盤が起きるようです。筆者は切羽で自分でも気づかないまま口笛を吹いていたようです。
山の神様ではなく、川の神様は口笛は嫌いなのでしょうか?泰緬鉄道でも"Colonel Bogey March"(クワイ河マーチ)など口笛でやりながら死んで行った、筆者の戦友もいるかもしれません。
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TO JAPAN TO LAY A GOHST
Peter S Rohdes 1998
The Changi Museum 2008
p150
第7章
日本での捕虜(続き)
炭鉱での2年半を通して我々を悩ませた問題にトイレットパーパーがあった。1人1日3枚なのだ。これは1枚で拭き上げ、1枚で拭き下げ、1枚でぬぐうと説明されたが、紙はあまりに薄く、1枚では殆ど用をなさなかった。さらに木が原料であることは明らかだったが、棘に刺されたという話は聞いたことがなかった。給与は病気でないもの(健康なもの、と書きそうになったが)にはかろうじて足りたが、病棟にいるものにとっては明らかにそうではなかった。そこで我々の把え主はご親切にも1人1日6枚に増やしてくれた。あるものたち、主にオランダ兵はワインの空き瓶か小さな水差しで用を足していたが、隣室の英兵が自分式の問題解決法を発見した。
病舎の西側は収容所の端で、高い木のフェンスがあり、幅12フィートほどの炭殻を敷いた道路が沿っていた。我々が入る前に誰かがフェンス沿いに2フィート程地面を掘り、トウダイグサを植えていた。いつも笑顔を絶やさないロンドン人だった戦友は、数m歩くことが出来、こっそりフェンス越しに大きな掌の形をした葉をちぎって持ち帰った。その夏から秋になる頃にはトウダイグサの何本かは葉がむしられて裸になってしまった。
体が少し良くなると、1日中寝ていなくても良くなり、時間の過ぎるのが重くなった。会話がまず必要なのだがそれには同室のものが、同じように話せるだけ良くならなければならなかった。あらゆることが話されたが、皆が好きだったのは戦前の仕事のことだった。誰かが昔のことを話すとき「去年」と言ってから「いやそれは1938年だが、」と訂正することが度々あった。誰も招集されてから現在までの時間、大体は4年間を差引いているのだった。
戦争が終わって家に帰るとき、しばらく一緒だったある者は、捕虜になっていた間にブリッジを覚えなかった俺は特別だと自慢していたが、多くのものが覚えたにせよ、特別というわけでもなかった。同室だったオランダ人、ヘルマン・ファン・レネップは20歳ほど年上だったが、オランダ商船の購買にいたそうが、ブリッジとクラブの仕来りなどを教えてくれた。私は彼と組んで度々勝負に勝ったが、掛け金を手に入れたわけでもなかった。彼はライデンで美学士を与えられており、様々な思い出や哲学理論で我々を楽しませてくれた。
収容所には多くはないが本も持ち込まれていた。読書が誰もの趣味というわけでもないだろうが、良く読まれた。私はチャンギでシンガポール陥落前に手に入れた数冊の本を持っており、それでビンタをくらったが、日本に持っていたのは2冊だけだった。一冊は米国の昔のエッセーのダイジェストで、もう一冊はシェリル・ワイトンの「室内装飾」だった。これも米国人だが、バニスター・フレッチャーの「建築史」を忠実になぞっていた。この本は時代に沿って室内装飾の発達を明快な歴史として示し、同時に陶器・ガラス器・銀器・壁紙などにも独立した章を設けていた。その記述は魅力的な読書には見えないかもしれないが、私には魅力的なもので、他のものも聞けば引き込まれていた。1943年12月から終戦まで、度々間をおいて英国人、オランダ人、オーストラリア人がやってきて、「あの本を借りられるチャンスは?」と聞くのだった。この本の魅力は単純なものだった。読みやすい文章で書かれており、挿絵が多数あり、現在の環境と正反対の生活水準について書かれていたからだ。「無人島へ持っていく一冊」というラジオ番組があったら、迷わず本書を上げるだろうが、それは私が体験した厳しい経験によるものだ。
10日シフトの変わるたびに鉱山病院から日本人医師ー鉱山会社が雇った老人がやってきて、外科区画と呼んでも良い入室者の患者全員を診察したが、彼は決して病室に入ろうとはしなかった。しかし数ヤードでも歩けるものは全員トウダイグサの植わった炭殻の道路に整列し一人ずつ診察を受けた。彼にはいつもラパード軍医と、私が嫌った、後でYoshikawaという名前を知った日本軍の衛生兵が同行していた。
鉱山医が働ける(働くのに適している、というわけでは無い)と判断すると、彼はyama(鉱山)と一語言う。それとは違って、働くまでは出来無いが、それでも部屋に戻ってtenkoを受けられると判断すると、彼はrenpei kyuと二語言う。しかしYoshikawaは英語が殆ど解らないので、彼の理解に基づいてrenpei kyuを所内作業と考え、炭鉱ではなく収容所内でこき使った。
残りは病床から起き上がれない惨めな者で、医者は何も言わないか、もう一度診て”Ush.OK”と言う。私は最初のひと月は全く診察を受けなかったが、その後の5ヶ月で15回の整列をした。骨と皮だけで弱々しく見えたのだろう。そしてそれを良くする手立ては何もなかった。
病院にいる間に奥歯を失ない始めた。ただ割れて、根を残したまま落ちるのだ。その結果何も噛めなくなり、ウサギのように前歯だけで食べ物を細かくして飲み込むだけになった。幸い飯と汁だけではそれほど噛む必要はなかった。さらに幸いなことに、残された歯茎は捕虜の間何も痛くはなかった。
秋が冬に代わって私は病棟で守られていることを喜んだ。しかし良いことは続かない。私の幸運は1944年1月28日に終わった。その日私は診察の後で所内作業と分類された。
北九州の緯度は北緯34度でモロッコ北部と同じだ。我々は真夏に着いたので、天候は全くの熱帯ではないものの、快適な暖かさだった。そしてそれに続く冬も概して穏やかだった。しかし時々北西の風が吹き、時として北東アジア大陸からの突風となった。
暖房が無く、窓は宿舎にいても寒く感じられ、窓はガラスにはパテが入っていないので、強い北西の風にはたいした保護にならなかった。風は宿舎の周りを音を立てて吹き、どこからでも入ってきた。我々に古新聞と少量のふのりが渡され、パテの代わりにそれで塞げと言われたのは二度目の冬、1944年の末だった。監視兵が一階の廊下から入れるように、二階の障子をふさぐことは許されなかった。隣室の一人が餓えのためにふのりを食べてしまったことが発覚し、銃剣で突つかれた。
炭鉱夫は貧弱な仕事着だけで、早く坑内に入りたいというのは驚くべきことだった。しかし我々所内作業のものは噛み付くような風を避けなけらばならなかった。作業衣を着ることはできず、かといって熱帯で1年間捕虜として過ごしてきたため、誰もいかなる種類の防寒着も持っていなかった。一人だけ、オランダ人の友が英国風の毛布を持っていて、仕立て屋の修行をしたことがある彼は、針とハサミを借りて糸を手に入れ、自分で「ロンパースーツ」を仕立てた。彼が収容所で最も暖かく過ごした一人だろう。
所内作業をしている間に雪が降ったことがあった。九州では比較的まれなことで、1/2インチほどしか積もらなかったが、雪が捕虜に及ぼした効果たるや、興味深いものがあった。英国人捕虜のほとんどは雪を呪った。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりする気分ではなく、ただ食堂や便所に行くのにブーツを履かねばならないというだけだった。捕虜のほとんどは鉱山会社が支給した、指の割れたブーツ以外にブーツを持っており、大方は手作りした木のサンダルも持っていた。これは雪やぬかるみを防ぐ役には立たず、すぐに足は泥だらけになり冷えた。しかしオランダ人の多くはインドネシア生まれで、そこを離れたことがなかったため、経験したことのない雪にほとんどがとりつかれていた。
上品な喋り方で「本国(つまり英国)」と呼ばれていた英国人も、明らかにシンガポールから遠く離れたことのないらしく、オランダ人同様雪に夢中になっていた。彼らは雪を拾い上げて近くで見つめ、更には舐めたりしたが、次に雪が降ると、我々同様嫌いになった。
私は20人程と炭鉱夫の使うゴム引きブーツ修理の班に入れられたことは幸いだったかもしれない。我々の私物がしまわれた部屋に隣接した畳敷の大きな部屋に座った。渡された道具は大きな針と黒糸で、ハサミは一丁だけだった。これは実に実りのない作業で、一旦ゴム引きの薄い布が敗れると、そこからすぐに破れてしまうのだった。しかし我々は日本兵に、もう余分なブーツはないと言われ、それを信じないわけには行かず、ベストを尽くすしかなかった。鉱夫は与えられたものでなんとかしのぐしかなかったのだ。私は針を扱うのには慣れていたが、仲間には治すより破く、というものもいた。
足袋直しは私が加わるまでに数週間仕事をしていた。オランダ人のクラマー軍曹が私を皆に紹介し、すぐに賑やかな話が始まり、私は新入りなので、皆の興味の中心だった。これが時間をつぶし、寒さを忘れる役に立った。様々な話題が四日間続いた後でクラマー軍曹が話を遮って直接私に聞いた。私がたった一人の英国人なのに、我々は皆英語で話しているのに気づいたかい、逆に君がオランダ語で喋ってみたらどうだろう?皆は私がオランダ語を理解する手助けをしよう。私は申し出を受け入れて、新しいチャレンジに向かい、うまくはいったがまだオランダ語をしゃべるまでにはならなかった。
2回の医療検査が無事に所内作業で過ぎた後で、1944年2月25日に恐ろしい言葉を聞いた。ついに”Yama”だ。
翌朝3時に起きると、当然ながら恐ろしさに震えがきた。支給された作業衣を着て水筒を満たし、午後シフトの連中と朝食をとった。わずかな慰めはどんぶりの飯と弁当箱の中が大盛りだったことだ。良い食事とはとても言えないが、所内作業では半分しか出なかった。
再び豚が指揮する7班だったが、彼はそれまでに6ヶ月一緒だったことがあるのに、私を見ても誰だか解らないようだった。彼は私を見上げ、見下ろし、見えたものが明らかに気に入らないようだった。作業スケジュールに従って炭鉱夫を求めたのであって、歩く骸骨を求めたわけではなかったのだ。buntaiの9人か10人は皆言うまでもなくがっしりした体だったが、入所するとき道路際で倒れて、翌朝収容所に担ぎ込まれたフレッド・ハリソンを入れて1人2人は、私から見ると貧相な体つきをしていた。しかし豚の表情とがっかりしたようなため息から判断によれば、私が最悪だと思ったようだ。彼は私の番号札を見て”Hachi-ju genki nai”とつぶやいた。
私たちはランプを下げ、山の神を拝して入坑したが、2号人車の底に着くと、そこから長い曲がりくねった穴を12分も歩かされて驚いた。そこには第3の人車があった。これは下るのに10分も掛かり、後で計算してみると地表からは少なくとも5,000フィートは下っていた。再び歩き始めたが、すぐに止まって小さな倉庫から豚はmaito(ダイナマイト)の入った大きな袋と、必要な起爆装置や発火装置を取り出した。その間我々は削岩機のオイルやebu(カゴ)とkake-ita(鍬)を取った。底には二つのトンネルが合わさる所に洞穴のような大きな空間に、トロッコに満載した石炭を巻上げる巻上機があり、hakuと呼ばれるからのトロッコが数多く集まっていた。
トロッコは頭のランプの薄明かりで見ると、巨大で、当然とても重かった。長さは8フィート、幅4フィート深さは2.5フィートほどだった。極めて厚い鋼板で出来ていて、丈夫な鋼製のシャーシが連結器のように前後に突き出していた。チェインとフックで繫ぐ様にもなっていた。容量は72立方フィート程で、細かい石炭だと3.5トン程になったと思われる。かのトロッコの自重は少なくとも0.5トン以上だっただろう。
豚は爆薬を持ってトンネルを登るのに出発し、捕虜は空のトロッコをそれぞれ2人で押し上げた。我々は手を空のトロッコの後ろに当て、ランプがレールと地面を照らすように、頭を下げて永遠とも思えるほど歩き続けた。実際には20分程に過ぎなかったが、休みが来ると私の背中と足は痛んだ。横にいたジョー・キーンは一定のスピードで進まなければならないと私に注意した。遅過ぎると後ろに続くトロッコで足を砕かれる、早過ぎると同じように前にいるものを傷つける。トンネルは1mごとに両側にある木製の柱にレールを渡して支えられていた。この「アーチ」は音をさえぎるのに効果があり、前後のトロッコのゴロゴロいう音や、数フィートしか離れていない、押す者の声を消していた。
周りを見回すチャンスがあったので、トンネルは全体が分厚い石炭の層に掘られている様子が解った。炭層は左から右に下がっており、たぶん人車や巻上げトンネルと同じ角度と方向に走っていたのだろう。作業トンネルは多かれ少なかれ炭層の等高線に沿っていたが、山をゆっくり登る様に、かすかに左に向いていた。この効果は空のトロッコを切羽にあげるには大変な労力を要するが、石炭を積み込んだトロッコは労力少なく緩い坂を下りるというものだ。少なくとも、理論上はそうなるはずだが、すぐに当時の日本ではすべてのものがそうであったように、常にうまくいくとは限らないことに気付いた。
トロッコを長い距離押し上げる毎日が続く中で、男達は話をするのだが、話題は常に一つ:食べ物だった。捕虜の年月の間、私は別のことを考えようとした。有難いことに私は元来大食いではなかったし、美食に情熱を注ぐほうでもなかった。しかしああした悲惨な環境では、食べ物とそれまでに食べたことのあるものの記憶が、次第に私の意識を支配するようになった。考えても同じことで、しゃべっても同じだった。
仕事場、トンネルの終点に着いて、誰かがトロッコを叩くと即時に止まらなけらばならない。上を見ると大きな通気筒が頭上に吊るされ、我々の前で終わりになっているのが見えた。目にあった3台のトロッコを過ぎると、トンネルの端に石炭の切羽が5フィートほどの厚みの砕かれた石炭の山に埋まっているのが見えた。トンネルの高さは7フィート程、頂部の幅は8フィート程床面で10フィート程で、それから推測すると、石炭の山は20トン程と考えられた。
遅れることなく豚が我々を仕事に付かせた。削岩機と長いビット、ニューマチック・ピックはすでに前のシフトが使ったまま切羽に向けて残されていた。その者たちには会わなかったが、後には第1人車と第2人車の間のトンネルですれ違うようになった。二人の男が削岩機を使うよう、残りの者は一番後ろのトロッコから積み込むよう指示された。3人が崩した石炭を掻いて籠に入れ残りのものは列になって籠を後ろのトロッコに手渡した。トロッコが3台埋まると、豚は私とあと3人を最初の2台のトロッコを揚炭機に下ろすよう言い、私は作業が変わったので喜んだ。3時間の間私は体を二つ折りにして地面を掻くように石炭を下ろし、背中と脚の後ろが痛かった。
この時は、私の初めての経験では、トロッコはほとんどの部分で少し押すだけで順調に走り、自然に走っている間は後ろに飛び乗った。これはなかなか面白く、ただ漆黒のトンネルを前のトロッコにぶつけないよう集中していればよかった。満杯のトロッコが集まる元の場所に着くと、4人は歩いて切羽に向かったが、豚が次の満載トロッコを送るのに注意していなければならなかった。
切羽に着くと豚が不機嫌な顔で我々を迎え”Jikan takusann”(時間沢山)と唸り、それから”Ush. Bento!”(よし、弁当)と怒鳴った。すぐに彼と10人程の捕虜が、言われた通りにトンネルの脇に腰を下ろして飯を出した。弁当はいつも変わらなかったが、時間は過ぎ、飯の味が解るようになっていて、米が変わったかもしれんという話も出た。さらにはどのコックが炊いたかもわかると自慢するものもいた。
豚は飯を実に早く飲み込む。弁当箱を片付けるのに数分しか掛らない。しかし私たちが食べ終わるまで15分待って”Ush. Shigoto.”(仕事)と叫ぶ。私たちは否応無しに再び仕事に取り掛かる。削岩機の2人は石炭の山に乗って上の穴を開けるが、我々が崩れた石炭をどけると、今度は下の穴を開ける。穴がすべて開き、崩れた石炭がどかされると、爆薬が仕掛けられるが、maitoを仕掛けるのは常に豚がやっていた。
天井近くのもの以外、穴にはダイナマイトが2本ずつ入れられるが、中央の天井近くのものは1本だ。1.5m程のワイヤがついた起爆装置は外側のものに付けられ、長い木の棒でmaitoは一番奥まで押し込まれ、泥を手で伸ばした2-3本のソーセージでふさがれる。これで深さ50cmほどの穴はいっぱいになり、残りにはよく乾いた砂を詰める。次に豚はまずセンターラインの床近くの3カ所、次に両脇の2カ所、そして最後に天井という3つのグループに配線をする。
発破の時には我々は30m程後ろに下がる。私は最初まだ近すぎると思っていたが、爆発は考えていたよりずっと小さく、音はさらにアーチで遮られていた。一度だけ石炭の塊が最寄りの男から1ヤードほどのところに落ちたことがあった。
愛太の最後の仕事は次のアーチを組むことだった。Waku asiと呼ばれる両側の柱は左が7フィートほどで、反対側は2フィートほど長い。これは両方の柱を炭層の下にある石灰岩の層に据え、頂部を水平にするためだった。そのためには右側の柱の下の床を掘らなければならなかった。両方の柱の頂部にはレールをはめ込む溝が必要で、エキスパートの仕事であり、常に豚がやっていた、
アーチを立てるのは常に辛い作業で、それは単純にレールと両側の柱の重量のせいだった。レールを所定の位置に据え、天井に押し付けるためには必然的に、それを我々の頭の上まで上げなければならない。レールの重さは260lb(118kg)程で、4人で持ちあげられれは幸運だったが、豚がいつもはそれを3人でやらせた他の人数は両側の柱を支える必要があったからだ。少なくとも私が行くまでは、それまでnana buitaiには事故はなかったが、他のグループではレールを落として脚を傷つけ、足を潰す事故があったことを聞いていた。今思うと苦い笑いがするのは、レールを持ち上げる男の体重を合わせたよりも、レールの方が重かったことだ。
私は切羽でひと月ほど作業をした。最初は午後勤で9日間、次に休みの後で夜勤が9日間、そして朝勤3日目の4月20日の仕事が終わる頃、左足の裏に突然ひどい痛みを感じた。尖った石炭のかけらが足袋の破れたところから中に入り、足に刺さって、腫れが急速に広がったのだ。我々の衰弱しきった体ではよく見られたことだった。朝には引っかき傷だったものが、晩には膿んで赤く腫れ上がるのだった。
私の足は見る間に腫れ上がり、退勤時にはひどいびっこを引いていて、一番下にある第3人車の最後の便にかろうじて乗ることが出来た。しかしそこから第2人車までは長い距離を歩かなくてはならず、ここでも私はやっと最後の便に間に合った。そして私が片足を引きずって第1人車にたどり着くと、すでに最終便は出た後で、二つある駅灯は消えていて、私は否応無しに歩いて登らなければならなかった。勾配は1/2以上で、床一面に滑りやすい石灰岩の破片が散らばっており、健康なものでも大変な困難だったが、栄養失調で32.5kgしかない虚弱な者が腫れ上がった片足を引きずって登るのは恐ろしい経験だった。2時間以上かけてやっとの事で私が人車の駅に着くと、そこには豚が一人で私を待っていた。彼は私を耳で引っ張って”Hachi-ju joto nai”とブツブツ言いながら、耳で引っ張ったままキャンプまで引きずって行き、乱暴に門扉を蹴った。兵がそれを開けると豚は私を中に押し込んで、踵を返し、おそらくは冷たい風呂と冷たい食事の街我が家へ帰って行った。
兵は私に気を付けを命じ、頭にきついビンタをくれると、o-furoへ行けと命じた。私はまず着替えを集め、体を洗ったらすぐに医務室へ行きたいと言った。兵は渋々それに同意し、私が体を洗うのを待って医務室へ連れて行った。ラパード先生がいることを願ったが、すでに帰っていて、多分食堂にいたのだろう。そこにいたのはインドネシア人のオランダ軍衛生兵のスイデマと日本人衛生兵の吉川だけだった。日本兵は私を高い椅子にかけさせて、腫れ上がっていた傷を診察し、私が傷は足の裏だと説明してもそれを無視し、消毒もしていないメスで足の甲を切り裂き、血が出てくるだけなのを見て残念そうな顔をした。スイデマが傷を包帯で巻き、工業用アルコールのスプーン一杯を水で5倍に薄めてくれ、日本兵にどこへ行かせるか聞いた。彼が”Ush, Byoin”というと、私はむしろ救われた気がした。
私は病棟に2週間いて、最初の数日は足裏だけでなく、甲にまで及んだの傷を抱えて暑さに苦しんだ。ラパード先生は翌日私の傷を見て肩をすくめ、私達は顔を見合わせて日本兵を顎で指して意味の深い眼差しを交わした。先生は傷に塗るのでなく、内服薬であるスルフォニルアミドを数グラムくれた。この結晶は米軍の野戦病院から手に入れたものだった。
その後の2週間は所内作業で、2・3回収容所司令官のウサギにやるタンポポを取りに行った。足の傷が完全に治るまでは良いことではないが、私はこの出撃を楽しんだ。
1944年4月19日、私は再び坑内に入り、日直だったが、すでに作業は古いトンネルでは行われていなかった。その代わり私の持ち場はnobori(日本語のnoboru-登るから)だった。これは炭層のスロープに沿った元のトンネルと、平行で数百フィート上にある別のトンネルをつなぐトンネルだ。いうまでもなくこうした傾斜の急なトンネルは捕虜に”Nobodies”として知られていた。穴あけは全て全て上向き30度ほどで、重い削岩機を時には頭の上まで持ち上げなければならず、仕事はきつく危険なものだった。わたしは削岩機を数日担当したが、地獄だった。傾斜していて、足元は滑りやすく、崩した石炭の山はその場に止まらず、足場とならないので、ドリルの先を押し付けるだけでなく、ドリルの近くに居続けることさえ、飛び抜けて難しかった。ドリルの刃を岩に押し付けるのは肝心だが、刃を前に進めるだけでなく、危険な削岩機の反動を少なくするためにも欠かせない。作業班が満足できる様に削岩機を進めることが出来たかと思えば、二人の担当者の一人が滑って先端の圧力が緩み、もう一人が体のどこで削岩機に圧力をかけているかによってひどい傷を負う。肉のクッションは必要だが、我々はあまりに痩せこけていて骨が皮に近くて我慢できるところはどこにもなかった。恐ろしい削岩機は嫌いだ。
空のトロッコが下のトンネルに並ぶと、切羽の割れた石炭は先ずカゴに入れて、傾斜したトンネルの中心に据えた、鋼板でV字型になった溝に流し込む。溝の中を長い竿で一番下まで押し流す。最後に溝の下で再び人の手によって再びカゴでトロッコに投げ込まれる。危険なのは石炭をいつ溝に投げ込むのかまともには見えず、大きすぎて溝を外れた塊が、常に暗闇の中をトンネルを跳ねながら飛んでくるためだった。さらには削岩機が使われていると、石炭の飛び跳ねる音をかき消してしまう。覆うものがなく、あまりに疲れていて、顔から数インチのところで削岩機を使った最初の数日は、まったく耳が聞こえなかったが、やがてそれに慣れると、相棒とある種の会話が出来る様にまでなった。しかしその後わたしは耳鳴りが始まり、耳の奥でそれが続く様になった。
アーチの立て方は傾斜のため、登りではさらに難しく、重いレールの下は床から7フィート以上あり、背の高い者がつま先で立ってやっとだった。
五月末日、午後直四日目、私が溝で長い竿を使っていると、大きな塊が飛んできて私の右脛に当たった。ゲートルは何の役にも立たず脛の肉が割れて開いた。次の日私は再び病棟に入り、11日間を過ごした。
6月12日に夜勤で再び山に入ると、助かったことにnoboriは次のレベルに達して完成し、nana buntai は再び元のトンネルで働いていた。この時には人数は8名に減っていて、私は最も背の高い者の一人だったので、たびたび削岩機を割り当てられたが、今度は違う相手とだった。削岩機を押すふりをして自分の分を押さず、相手をだますので、一緒に働きたくない者が2人いた。
そのうちの1人は私の弁当を盗むことまでした。弁当箱がnoboriで見つかったから、おそらく誰もいないそこで食べたのだろう。実際にはnoboriは快適な場所ではない。主トンネルとつながる両端には換気の邪魔にならないようエアロックがあった。なかの空気は常に湿気ていて、特有の匂いがあった。理由はそこを便所に使うものが多かったからだ。
班のメンバーには体の病気と衰弱だけではなく、精神的に明るくない者もいた。ある日豚が私に、実のところ頼れるのは421(フランク・ジョーンズ軍曹)、480(私)、481(ジョー・キーン)の3人だけだとささやいたことがある。私はこれに番号は忘れたが、ジャック・カントを入れても良いと思うが、他の4・5人が信頼できないことには同意する。豚にはこれが飢餓からくるもので、本当に頭が悪いわけではないことも解っていたが、彼は監督する人員の産出する石炭の量から上役-監督主任に認められていた。この時にも抗内深く仕事に気が入らない割には、豚に対して個人的な敵意を持っていたわけではないことが解っており、一度ならず捕虜の仲間が「うん、豚は悪くないよ。」と言っていたのを覚えている。しかしこれも同じことで私は彼を憎んでいた。
ジョー・キーンは私より2歳程年上で、ジョホール州交通部の役人だった。戦後英国に帰ったが、腹部のガンで死んだ。彼と私は削岩機でうまくやった。
フランク・ジョーンズは私と同じ歳くらいで、フリート街の新聞社でタイピストをしていた。彼は私のbuntaiのリーダーに指名されていて、豚は何か特別な作業に人が要ると頼んでいたが、豚に何か満足できないことがあると先ずビンタを食らうのも彼だった。
ある日石炭の山がほとんど掻き出され、ダイナマイトで崩せなかった分が、下左に少しだけ残って要るのが見え、豚が私にニューマチックピックでどけろと言った。私はこれをずいぶん慎重にやったが、厚さ6インチ程の大きな石炭の層が左の壁からはがれて、私の上に落ちた。豚は石炭が落ちて、私が埋まり、そこから這い出して立つのを見ると、"Baka, omaewa, hachi-ju"と叫んだ。彼は持っていたカゴで私に殴りかかTた。私は避けたが右の耳にカゴが当たっただけでなく、壊れた眼鏡が闇の中に飛んだ。眼鏡が飛んだのが豚に解ると、彼は手と膝を突いて眼鏡を探した。眼鏡はすぐに見つかり、有難いことに割れてはいなかった。彼はブツブツ言いながら眼鏡を元どおり鼻に乗せたが、落盤の結果右耳・左手・肩から流れる血には何の興味も示さなかった。今でも傷に入った石炭による青い色は残り、冬になると右の耳から血が出ることがある。
この時には太いサイドポストの裏に小さな柱を入れてクサビで締め、トンネルの横にある石炭を支える作業をしたこともあった。突然豚が私の後ろに来て頭に数回ビンタを他時、私は全く別のことを考えていた。豚は渡すの耳をつかんで向きを変えると、汚い手で私の口をふさぎ、"Kichibue ga kinjiru desu!"と怒鳴った。一瞬私には何が悪いのか見当がつかなかった。何かをkinjiru(禁じる)のだが、それは何だ?豚は私の口から手を離して彼の口を尖らせ、"Kichibue! KIchibue wo fuku!"と言った。合点がいった。息をする間に口笛を吹いていたのだ。豚は身振りで示し、ぶーぶー言って理解できない日本語を喋り続けた。誰かが坑内で口笛を吹くと、山の上のkamisama(神様)がokotte iru(怒る)、そしてさらに重大なことは天井が落ちてくる。私は素早くうなづいて"Hai Wakarimasu"と言った。
私はいつでも息をするときに口笛を吹くのが楽しみだったと、彼に伝えらればよかったと思った。生まれつきの習慣で学校の授業でも口笛を吹いていて問題になったことがあった。そうした様々なことを説明できれば良いと思ったのだが、どの例で説明できただろう。シンガポールで解ったことは、言葉が友情のために最も大きな難関で、世界の争いの大きな原因になることだった。また後はそれが発見と友情と冒険の魔法の世界への大きな鍵となることに気づいた。私は口笛を吹いていたわけではない、少なくともそう思ってやっていたのではないことを誓ったが、数日後実際にトンネルの天井が落ちた。切羽から100m程の所だったが、我々がそれに気づいたのはシフトの終わりに満載のトロッコを押して戻る時だった。その半時間前に換気が止まったのが警告だったが、これは前回はポンプの故障が原因だった。
3アーチ間、10フィート程の長さ、厚さ4フィート程の天井が崩れ、もろい頁岩の塊がトンネルをふさいだ。一目見ても通れるところは無かったが、天井近くをよく探すと、頁岩の山の上に潜り込んで這えば抜けられそうだった。しかしそれを豚に言っても彼は聞き入れなかった。その代わりトンネルの脇に我々を座らせ、落盤を見てはいけない、口を開いてもいけないと言った。
豚は帽子を回して、我々のものとは逆に光が後ろへ届くようにして、向こうから近づく光がないか注意深く見守った。我々は落盤から顔を背け、近づいてくる声がしないか聞き逃さないようにした。20分程する声が聞こえ、それから再び聞こえなくなり、"Aw! Iruka? というかすかな日本語が聞こえた。豚がそれに答え、日本語で会話が交わされ、豚は口を聞かず座ったまま助けが来るのを待てと言った。ずいぶん長い時間に思えたが、次の呼びかけがあったのは20分程後の事だっただろう。
酸素の欠乏は心配するほどでは無かったが、fu kan(風函あるいは風管)が無いと温度が急速に上昇し、汗がやたらに吹き出してきたが、私の気がついた限りでは誰もが無言で完全に無言だった。
最後に豚が、1人ずつ立ち上がって、できるだけゆっくり、静かに動けと言った。私は5人目か6人目で、足を正確に豚が示した場所に置き、落盤の頂上に登った。そこで数秒休んで見ると、私たちの座っていたところは通常の天井よりも1フィートほど高い所だった。落盤はおおむね円錐形をしていて、頂点は頭上4フィート程、通常の天井から7フィート程だった。私の左耳の近くにあった、厚さ1フィート程の割れた頁岩の大きな塊以外は安全であるように見えた。私は次のシフトのオランダ人に助けられ、そこに座った日本人班長の手を借りて、割れた頁岩の反対側を滑り降りた。豚は最後に脱出して、彼ともう1人の分隊長が礼儀正しく挨拶を交わすのを目にした。私は何か言いたくて別の日本人の手を握って"Arigato"と言った。彼はびっくりしたようだったが、顔中に笑顔を広げて何か私にわからない日本語を言った。後に学んだところでは”Doitashimashite(どういたしまして)だったと思う。
次に目に入ったのはさらに明るい光が我々を照らし、救援隊と思われる別の何人かの日本人が落盤の頂上から大きな塊を下ろしている所だった。危険な仕事だと思った。崩れた岩を乗りのぞいたのは誰かわからない。別のシフトの人々が必死で働き、補修班も来たのだろう。数時間後、次のシフトが回ってくると、トンネルはきれいに片付けられていて、風函は修理され、落盤のあった天井は木材で補強されていた。1944年7月8日が私の25回目の誕生日だったが、お祝いといえば脚に再び潰瘍が出てきて、医務室の順番を待つことだった。ラパード先生は体温は平熱で、私の為にしてやれることはあまりないと言い、吉川は入坑しろと言い張った。私はもう9日間入坑したが、その時には潰瘍はさらにひどくなっていて、ぼんやりして体調は明らかに病気だった。耳の後ろに圧迫感があり、体温が上がっているように思え、医務室にそう言うとその通りだった。ラパード先生が吉川にそう言ってくれ、彼が"OK,Byoin"と言ったので、私は救われた気がした。これは7月17日のことで、私は名目上入院したが病床は満員で、私の「病床」はコンクリート床の倉庫の中の、脚に板を乗せたテーブルで、私の骨の上にはほとんど肉が付いておらず、とても辛かったが、それでも穴の底に入るよりはマシだった。
5日ほど過ぎた後で、体温が平熱に戻ったようだと感じて困った。体温計を使うことは許されていなかったが、耳の後ろの圧迫感がなくなったが、脚の潰瘍には膿が貯まっていた。次の往診が近づいており、何かしなければならなかった。そこで私はあることを考えつき、3日後にそれはうまくいった。日本人医師が私から抜いた体温計は38度、華氏で言うと100度ちょっとだった。私はそれから同じトリックを2度使い、8月22日の日直で坑に送られた時には、潰瘍は治っていた。
私のやったことは、友人に私の私物からチャンギで作ったパイプに、シガレット2本をバラしたタバコを詰めたものを持ってきてもらうことだった。私は回診の医者が事務所に着くのを見てそれに火をつけた。オランダ軍の衛生兵スイデマが私に体温計をよこした。私は親指と他の指をパイプで温めて体温計が38度になるまでそおっと指で体温計を温めた。
分隊に戻ると豚はうなずきブツブツいって私を歓迎し、私は2日間の日直と格闘し、3日目が休みだったのがとても嬉しかった。格闘は私の体が良くなり治った(比較の問題だが)と感じられたのに、私の脚、特に膝とくるぶしは絶望的に弱くなっていたためだ。2人で空のトロッコを切羽に押すのにも大変な苦労で、2日目には相棒のジャック・カントにそう言ったのを覚えている。休日の後は午後直となり、私は満載のトロッコを線路のへこみにはめて動けなくなり、切羽に戻って助けを呼ばなくてはならなかった。豚はもう1人助けをつけてくれたが、その前に私にビンタをくれ、それまでに聞きくたびれた"Hachi-ju joto nai!"という文句を怒鳴った。同じことは翌日2人でトロッコを押していても再び起こった。2人でしばらくへこみと格闘して見たが、どうにもならず、しばらくして豚が様子を見にくると、完全に怒っていたが、彼からするとさらに重要なのは空のトロッコを押して戻ってくるときのことだった。
深夜キャンプに戻ると、豚は衛兵に報告し、私の腕をきつくつかんで医務室へ連れて行った。誰もいないことを期待したが、驚いたことにそこには吉川がいた。豚は吉川と長いこと話してい田が、私にはひと言かふた言しか解らなかった。それから吉川は私に向いて、彼に解るほんの限られた英語で、私が仕事をサボっていることを何度も繰り返し怒鳴った。私はサボっているのでなく、足が弱いことを説明しようとしたが、日本兵はそれに耳を貸さず、いつものビンタで私を征服しようとした。すると驚いたことに、豚がそれを制止した。私に解る限りでは、豚は私がこれまでよくやったこと、そして今は体があまりにも弱っていて、目標を達成するためには弱くなったものを使うわけにはいかないと言っていた。吉川の腕は途中で止まり「よし、所内作業。」とぼやいた。私は救いのため息をついて吉川の背中に感謝を言い、足を引きずって宿舎に戻る前に、豚に丁寧に頭を下げた。これで豚とも、身の毛のよだつ坑内作業ともお別れだ。
私は1944年8月26日から1945年3月7日まで、6ヶ月以上に渡って所内作業をし、この間給食は2/3となったが、それでも坑内作業よりはまだマシだった。最初の作業は足袋直しだったが、これは2週間しか続かず、あとは収容所内の雑用だった。仕事自体には大きな問題はなかったが、数多くの若い日本兵がおり、キャンプをうろつく、あるいは1人だけの捕虜に対し、常に彼らの優越性を見せびらかそうとすることだった。毎日一つもビンタを喰らわずに済ますことはとても困難だった。
そして1944年の8月半ば、私は衛兵所に報告を求められた。また何か厄介ごとかと思ったが、言ってみると箒を渡され、掃除をしろと言われた。その後の4ヶ月間、毎朝衛兵所に行って報告をする。もう1人の捕虜、ジム・ホープという、かってはマラヤで農園をやっていた中年のオーストラリア人が、すでに事務員として働いていた。彼は傷のため歩行が困難だった。もう1人の捕虜ジム・ワーナーはやはり傷を負っていて、雑用係だった。私はこうして日本軍の下働きとなった。日本兵は高橋gunsoが指揮していて、何かと私をからかう。最大の某業は私が単純なやつだと思わせることだった。これで変なことが色々起こったが、ビンタは免れ、時には食べ物、稀にはシガレットもくれた。しばらくすると私は衛兵所の日本兵全員、収容所司令官の末松大尉に"Megane baka"(眼鏡馬鹿)として知られるようになった。私は理解できることは少しながら、全ての会話を聞くよう努め、それでもたまにはニュースの断片を知るようになった。しかし日本兵は戦争全体の進行についてはあまり知らされていないようだった。常に誰かが誰かの頭をライオンの口に突っ込んでからかうような雰囲気があったが、それでも時は流れ、ビンタを食らうこともなく、日本語をもう少し学んだ。
時として私はウサギの餌を集めに出かけるよう命じられた、衛兵軍曹のTakahasiが自分で班を作って連れて行くこともあった。ある時彼はいるものの中から一番大きく、力のあるものを選んで(こう書くと、間違った印象を与えそうだ!)私たちは古いが丈夫な縄をふた巻き持って出かけた。Takahashiの目的は何度か外へ出かけて、少なくともいくつかは1.5トンから2トンはありそうな、大きな風化した石をキャンプに持ち帰る事だった。必要な石が引かれて衛兵所のだいたい反対側の行進広場の脇に置かれると、Takahashiは所内作業の捕虜を集めた。そして石を丸太と縄で直径10フィート程の円の中に収まるようにした。彼のあれこれの指図に従って捕虜たちのぶつくさ言う声、うめき声の末に、石があるものは縦、あるものは横に据わると、軍曹は石全体を歩いてあらゆる角度から確かめた。そして彼自身がつぶやき声を上げながら、身振りで石をあちこちと細かく動かすよう指示した末に、やっと満足が行ったようだった。そして縁を取り巻く炭殻は鋤で均され、フットボール位の大きさの石で囲まれた。
細かなところをあちこち直すと、Takahasiは「石庭」を見回して、"Ush, OK"という声には満足感があふれていた。そして彼は回れ右をして衛兵所に帰った。この時まで私は"Ikebana"や、それにまつわるものを聞いたことがなく、龍安寺の石庭も聞いたことがなかったが、Takahashiの石の庭は芸術として完成の域に達しており、どの角度から見ても完璧な調和とバランスを示していた。
1945年の2月末、キャンプ周辺には所内作業の捕虜から新しいbuntaiを作るという噂が流れた。さらに噂によれば選ばれたものは現在の2/3ではなく、3/4の給食が与えられるという。実際には新しい分隊はgara buntaiと呼ばれ、私達にはgaraという言葉の意味は分からなかったが、25名程の歩行患者によって1945年3月8日に結成された。正確な人員は思い出せないが、オランダ兵が16-7名、私を含め英国兵が8-9名だったと思う。日直班が山へ出かけた後、我々ボロを着た、その場にそぐわない捕虜たちは、よろよろと門を出て山へ向かったが、すぐに左に折れてキャンプのすぐ外にある大きな選炭場へ向かった。我々の仕事はmame tan(豆炭)、英国では"ovoids"と呼ばれるものだが、粉炭を機械に入れて圧縮整形するのだが、"ovoids"では充分ではなかった。英国で使われる炉には炎炉と煙突がついているが、日本ではそのようなものは稀で、その結果使うことのできる燃料はhibachiと呼ばれる小型の燃焼具で使うことのできるコークスか木炭に限られた。そのため"ovoids"はコークスにしなければならなかった。炭泥が大きな置き場から西洋式のスコップで掘られ、移動可能な簡単なレールを動く小さなトロッコに乗せて成形機に運ばれる。そこで固められた粉炭は同じように、泥と道路に近い硬くて平らな場所に運んで広げれる。しかし広げる前にまずトロッコ一台分が大きなドラム缶で燃やされ、火が回ったら火の付いた豆炭をシャベルで運び、地面に下ろして長い火の帯を作る。それからトロッコの豆粉炭を火の付いた豆炭にかぶせて長さ30-40フィート、底の幅4フィート程、高さ2フィート程の山を作る。
山は風の強さによって半時間から1時間程燃され、これも小さなトロッコで運んだ湿った炭泥を、厚さ3インチか4インチ程かぶせる。これが肝心な工程で、空気を遮断すると山はゆっくりとコークスに変わる。中1日置くと山は冷えて近所の主婦がバケツを持ってきて完成品を入れて持って行く。どのくらいのコストが掛かっているのか見当が付かないが、シンプルで安上がりな経済活動だ。
相変わらず仕事はそれなりにキツかったが、私たちにかかる重荷は坑内に比べてずっと楽で、昼のbento以外、朝と晩に休憩を許された。この仕事を始めた時には、天気を避けるのはコークスの燃える所近くの、粉炭を燃やすドラム缶を置いた波トタンの小屋だけだった。3月の気候はまだ寒く、休憩時間になると我々全員、それに3人の日本人もその子屋にぎゅう詰めに入った。見ると賢くてそこを仕切っている日本人は50歳程のがっしりした男だった。彼は全てが民間人の振る舞いだったが、足を鳴らしながら歩く様子だけが兵隊上がりを示していた。介添えはさらに年寄りだったが明らかに権威が無く、同じように兵隊歩きをした。3人目は17歳ほどの若者で、兵隊に行ったことがないらしく、普通に歩いていた。
休憩時間には捕虜は小人数のグループで集まっていたが、私はいつもの通り日本人と話をしようとすると、若者に一番その気がありそうだった。最初彼に近ずくと、疑うような疑問の眼差しで年かさの者達を見たが、我々が「四つ目」と名付けたボスはうなづいてそのまま話をし続けた。そこで彼はそこを去るまで何日も私と話が出来るようになり、私はさらに単語を増やすことができたが、構文はまるでダメだった。
これより前、1944年4月か5月、nana buntaiがnoboriで作業をしていた頃、早朝キャンプから山へと行軍していると、誰かが道路脇のみずみずしい野草の若葉に目を止めた。皆が何の気なしにそれを眺めていると、デダムから来たかっては農業者だったヘンリー・アーノルドが、田舎の訛り以外何の誇張もなく「シロザです。食べられます。」と言った。即座に10人以上が「シロザ?」と口を合わせて問い詰めた。いつもはそこを過ぎる時には厳重な衛兵がついていたので、何もできず、やがて忘れられてしまった。そしてそれから1年、1945年の春、再びシロザが芽を吹き、私達の通路から数フィートしか離れていなかったので、私と何人かが芽を摘むことが出来た。空き缶に入れて水筒から水を注ぎ、小屋の残り火で煮た。嬉しいことに、茹だった緑色の野菜はとても美味しかった。誰でもシロザが好きだったわけではないが、食べたものは誰もがこの野生のほうれん草の恩恵に預かった。
たまたま民間人が様々な土仕事をしているところを見ることもあった。よく太った芋虫を集めて焼いて食べる。箸の使い方を盗み見すると、近くの灌木から切った、少なくとも3フィートはある木の枝を使っていた。私は一度か二度日本兵がくれた時に食べてみた。全く不味くは無かったが、それが何かを思い出すと、考えは一転するのだった。蛇も一度食べて見ると美味かったが、くにゃくにゃで噛み切れなかった。蛇を捕まえて食べるのをみて驚いたのは、シンガポールでの経験から、日本人は蛇を怖がるのではないかと思ったからだ。実際には私が「大世界」にいた頃には内陸の倉庫で働いているときに、背の高い草地や灌木をなぎ倒しているときに、蛇がいれば、近くにいた日本兵はhebi(蛇)の叫び声で立ち止まって蛇を滅多切りにするのに参加したが、日本では見たことがなかったのだ。
Gara buntaiで働き始めてひと月ほど後、後で調べると1945年4月13日だったが、私たちがキャンプに向かってとぼとぼ歩いていると、私たちの横で子供が並んで嬉しそうに"Ruzuberuto shinda! Ruzuberuto shinda!"と歌いながらついてきた。最初は何のことかわからなかったが、後で合点がいった。ルーズベルトが死んだと聞かされたのだ。子供達、それに近所の大人数人が、私たちが泣き崩れるだろうと期待していたのだろう、我々がニヤッとしただけなのを見てがっかりしていた。どれもこのニュースを私たちに教えようととせず、後から衛兵所から尾ひれをつけて伝わってきた。ヨーロッパの戦争が終わり、ヒトラーもshinda。
1945年7月終わりのある休日、病兵を含む捕虜全員が洗炭場の前へ、そして洗炭場と坑口の間にある高台の病院の後ろの山を登らされた。そこにはキャンプの北に当たる左岸の山並みの中に、トンネルの入り口が切られていた。1,000人程の捕虜の列が山腹に整列させられ、収容所長から米軍の空襲があるかもしれず、ここは捕虜のために用意された防空壕であるとの説明があった。(これは事実で、それまでに時として高高度で飛ぶ飛行機を見かけていた。)次に列の先頭はトンネルに進むよう命じられ、やがて先頭が反対側の入り口に達して、U字型のトンネルを戻りかけた時、私はまだトンネルに入らず順番を待っていた。
日本兵は声を上げて全員をトンネルに入れようとし、全員が入ると中はすし詰め状態だった。こんな訳で私は中に入るのが最後の方になり、収容所の司令官が坑山支配人に入り口の塞ぎ方の説明を求め、支配人がそれに答えるのが聞き取れた。すでに炸薬の穴が掘られていて、入り口は爆破されるのだ。私は理解した。もし空襲でなく上陸があれば我々全員がトンネルに閉じ込められ、それで一巻の終わりだ。「オウ、ノー、アメリカさん、ここには捕虜はいません。」上陸がなくてありがたかった。
同じ休日キャンプに戻ると、私はキャンプの床屋に行って髪を刈り、髭を剃ってもらった。枢軸国最後の生き残りである日本国は太平洋戦線で負けているという噂あるいは推測が流れていた。この情報はその通りで、衛兵所からジム・ホープかジム・ワーナーか、あるいは捕虜司令官のスリュー少佐の示唆によってもたらされており、そのほかにも些細なサインがあった。高橋軍曹は短気によって恐れられていたが、突然全く丁寧になり、所内の所内の福利改善の提案を持ち出した。もちろん給食を増やすことはできないが、彼の提案は歓迎された。しかしスリュー少佐はTakahashiが「保険料を出している」との考えを私に告げた。
何の裏付けもないながら、南アフリカ軍のナインセイ軍医によれば「近々故郷に帰れる。」という気分が漂っていた。髪を切ってもらいながら、私はオランダ人の床屋に「上は良いから後ろと横だけ刈ってくれ。」と気楽に言った。床屋は「ヤー?」とだけ行って質問せずに言われた通りにしてくれた。
1945年8月15日水曜日の朝が始まると、には何も特別変わったことはなかった。実際にはキャンプの誰かがその日を知っていたとは思えない。どんぶり3/4という不充分な飯と、水っぽい野菜スープ、いつもの朝食を食べ、べとう箱にはいつもと同じ量の飯が入れられた。そして私は招集を受けて広場に出て、朝番の英兵と豪兵のあらかたが山へ向かうのを見た。そして次に25名ほどの病兵歩行者とともに豆炭製造場へ向かった。
暑い日で、朝はいつものようにじわじわと過ぎて行き、私たちは弁当を食べに小屋へ向かった。小屋は洗炭場の北側に数ヶ月前に建てられたもので、キャンプの北東隅のすぐそばで、向こうには烹炊所があった。小屋には二つしか窓がなく、裏側でガラスが入っていなかった。我々捕虜は左側の部屋の壁際のベンチに座り、3人の日本人は右側の小さな部屋で窓に向かっていた。小屋の隅の影が、「誤って」あたりに散らかったままの石を指すところを見ると、時は午後2時だった。昼食を食べ終わって、日本人を含む全員がうとうとしていると、烹炊所の方角から「おい、誰かいるか?」という米語は聞こえてきた。私以外は寝ていたので起き上がって窓から覗いて見た。コックの一人が柵の角の板の間から首を突き出して手招きをして、「本当かどうか解らないが、」と言った。「戦争は今日の正午に終わったと、今聞いたところだ。」「本当か、有難う。」と私は言い、手を振って椅子に座りなおした。これは前にも聞いたことがある話で、同じ噂で昼寝の邪魔をされたくはなかった。しかし半分インドネシアの大したことはない混血オランダ人が米国人のいうことを聞いて何かをヒステリックに叫び始めた。「なんだって?なんだって?戦争が終わったって?」私は彼に黙れと言ったが、この声で他のものが目を覚ましてしまい、私たちは急ぎ小声で相談を始めた。
階級からすると「スティップ」クラマー軍曹が先任で、彼が話を仕切った。「本当かもしれないが、私たちには解らない。前にもこの話はあったし、本当ならすぐに解るだろう。現状を見守って日本人を起こさない方が良いだろう。」この意見はすぐ受け入れられ、私達は昼寝に戻ったが、15分程するとこやの後ろを廻って足音が近づいて来て、窓台の上に知らない日本人の頭が見えた。
捕虜しか見えないので、彼はさらに歩いて日本人のいる部屋を覗き込んだ。私が寝ているところからは、間の戸口越しに窓のほとんどが見えた。新入りは友人に声をかけた。「いるか?」「ああ、何だ?」と眠そうな声が返った。「聞いたか?」「聞いてない。何を?」「戦争は終わった。」すぐに全員が窓辺に駆け寄る足音がした。「どっちが勝った?」私にはムキになった顔の3/4が見えた。「アメリカ」が答えだった。「さあ、、、」と顔が下がるのが見えた。それから自分長い間無言で、重いため息だけが聞こえた。「本当か?」「本当だ。宿舎でラジオで聞いた。」私は夢中になって、3人の日本人が見るからにしょんぼりしている様子を見見ようとした。4人ともしばらく何も言わず立ち尽くし、それから来訪者が行かなければと言って3人は椅子に落ち込んだ。
私は日本人の会話に気を取られていて、この小さな光景が終わるまで、私の運命に朝が来たのを忘れていた。戦争は終わり、傲慢な日本人は打ち倒された。椅子に座ってしばらく考えをまとめ、スティップを起こして良いニュースを知らせた。すぐに全員がこれを知った。驚いたことにあたりは全くの静寂で、興奮し切っている戦友も静かだった。しばらくするとスティップがとても小さな声で戦争は終わり、日本は負けた、しかし我々は今非常に、非常に注意深くしなければならない。彼らは警告無しに卑怯になることがありえ、我々には防御手段はない。我々は全員病兵で、多分何も知らない顔をしてじっと座っているのが良いだろう。スティップの意見は再び受け入れられたが、我々全員が彼の意見を噛みしめ、これで未来がやってくるかもしれないと実感するうちに、次第に会話が少しずつ行き交い始めた。
少なくともそれから半時間が過ぎた3時ごろ、3人が部屋から飛び出してきて"Ush.Shigoto! Shigoto!"と怒鳴った。結局これが彼らの我々に対する最後の言葉だった。私たちは既に「仕事!仕事!」というムードではなくなっていて、誰かが"Shigoto nai. Sensowa owari"と怒鳴り返した。3人は口を揃えて"Owari nai"と叫んで、我々に棒で殴りかかった。見ると3人とも泣いていて、今度は芝居を打とうとしている。ここでは我々の方が数で優っているが、小屋は狭く、ここで争いを仕掛けると大きな危険があっただろう。スティップの言葉で我々は小屋から炭泥の上に出て、日本人が3人一緒にコントロールできないよう、別々に散った。日本人の1人は他の者より攻撃的で、殴り合いになりそうだったが、我々が戦友を押さえて事無きに至った。それから四つ目は我々の小グループを率いて道路ぎわの炭泥の平らな場所に来ると、誰かからスコップを借りて黒い塊を掘り出し、力の限りにそれを遠くへ飛ばした。彼に勝ってみろと言うのだ。これでぐっと緊張がほどけ、我々は日本人が常に優位に立つように注意深くゲームを進めた。これがそれから半時間ほど続くと、キャンプから衛兵が一人やってきた。明らかに我々に対する公式命令を持参しており、すぐに我々はキャンプに戻った。
我々の小グループは全員病兵か、何らかの理由で作業や行軍に適さないと指定されていたが、それでもベストを尽くした。キャンプに戻ると日本兵が停止・敬礼を命令する代わりに、スティップが英語で「停止」を命令し、これまで日本兵がしていた「左向け、敬礼」の代わりに大きなはっきりした声で「解・散」と命じた。
歓声が上がり我々の小グループは走るなりびっこを引いたりしてそれぞれの宿舎に戻り、衛兵所に目を向けるものはいなかった。こうして私の日本における労働の月日は終わった。
by dehoudai
| 2018-10-15 17:42
| ほん
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