2018年 10月 11日
To Japan To Lay A Gohst7 |
「総力戦」というと、日本では最後の一兵まで戦う、ということになり、そのために明治維新以来「国民皆兵」ということで「死ねと言われたら文句を言わずに死になさい」という教育が続いていた。人間が一番安あがりな兵器なのだ。 University of Texas
当時日本のすべての産業がそうであったように、日本炭礦株式会社高松礦業所でも、働き盛りの男たちはすべて兵隊として招集され、戦地に送られて、残されたのは女子供ばかりであったろう。しかし炭鉱は戦争遂行のためにどうしても欠かせない。そこで取られたのが南方で囚われた捕虜を、炭鉱夫にすることだったのだろう。
University of Texas
今の水巻町 山の上にある図書館の入り口が、立坑を思わせる形になっている。
インパール作戦で参謀が「6,000人殺せばここは獲れます。」と言っていたのは、敵のことではなく、味方の日本兵のことで、国民を殺して敵に勝つというのが日本軍の在り方だった。最後の一兵に士官は入っていなかったのはご存知の通りだ。
アベクンを担ぐ連中の憲法草案にある、非常時には個人の自由よりも国民全体の福祉が優先される、というのは国民を殺して敵に勝つ、という日本軍の在り方を再現しようというのだ。
渡嘉敷島の集団自決事件は
1.国を守るためには軍隊が必要。
2.軍隊組織を守るために、邪魔な国民は死んでください。
という支離滅裂な論理から起きているが、これも国民を殺して敵に勝つというのが日本軍と考えるとつじつまは合う。尊い英霊なので靖国神社に封じ込めて祟らないようにするのだ。
ところが英米で「総力戦」というのは、あらゆる分野の最新技術を戦争の為に使う、ということを意味していたようで「戦争は儲かる」というのもそのあたりだろう。
日本での「防諜」は江戸時代よろしく国民の間に密告組織を作るぐらいだったが、米軍は空襲に先立って地方都市各地の航空写真に基づく精密な地図を作っている。戦時中の日本の地方都市の地図も、米国陸軍のものが航空写真に基づく最新のもので見やすい。
門司から折尾までの列車は、日本の他のもの全てよりも立派で、これも当時の日本人の暮らしを伺わせる。二俣線開通が昭和11年で、これが北遠の文明開化の始まりだったが、それは出征兵士を運ぶためのものだった。
この地図にも1945年とあるが、戦後のものではなく、爆撃と、その後の占領のためのものだろう。日本軍は国民を殺して敵に勝つことまでは考えていたが、占領後の占領地の経営についてはそれほど真面目に考えていたわけではなかったことが
尾崎士郎
新潮文庫 昭和29年
27刷 昭和47年
には描き出されている。
University of Texas
今の水巻町
折尾から水巻町まで、筆者たちは闇夜の田舎道を歩かされるが、これは捕虜の脱走を防ぐための回り道り道だったと筆者は断じている。爆撃用の最新地図を航空写真から作成するのでなく、その程度のことを当時の日本軍は「防諜」と考えていたのかもしれない。
日炭高松の炭住の写真は水巻町歴史資料館などにあるようだ。
著者も製粉工場施設などの設計が前職なので、炭住の建物と炭鉱夫の装束の記述が続く。
炭鉱夫入門で著者が記憶していることの一つは、チャンギで浸透穴から子猫を救い出したトミー・コーウィンが、日本語をいくつか知っていたために憲兵隊で痛めつけられた事件だった。たとえ知っていても日本語を喋れば、スパイ容疑でひどい目にあう。
まあ今の日本でも中学校・高等学校と6年も教えたところで、英語をしゃべる者が少ないのはご存知の通りで、文部省など劣等感のかたまりのようで、恥ずかしいから小学生から英語を教えれば、使えるようになるかもしれない、と考えていらっしゃるようだ。
日本語できちんと物を考えられるようになる前に、外国語など詰め込めば、何語で考えているかわからなくなり、物を考える能力が低下するのは目に見えているのに、米国の植民地住民を育てるのが文部省の仕事らしい。
英語をしゃべる人口が世界で一番多いというが、言うまでもなくこれは英語が解らないと暮らしていけない、英米の経済的植民地がそれだけ多いということで、英語が解らなくても暮らしていけるのをなぜ誇りにしないのか、理解に苦しむ。文部省など植民地根性のかたまりなのだろう。
中学校・高等学校と6年間も教えなくても、各地から日本に来た研修生が、1年もすれば日本語で意思相通ができるようになるのはなぜなのか、考えて欲しいものだ。言葉なぞ教わるものではなく、使うものなのだ。
そんな国で憲法改正を行い、
国民を殺して敵に勝つ
という日本軍の在り方を再現して、植民地宗主国たる米国への忖度の為に命を取られるなぞ、言語道断だ。
そして多くの捕虜を苦しめた飢餓。これは捕虜だけでなく、ニューギニアで交戦中の戦死が3%で、ほとんどは「戦病死」つまり餓死だったことでも知れる。士官・将が行軍を江戸時代の参覲交代と同じく、
夜毎土地の名物を食い放題、女は抱き放題。
と勘違いしていたことが原因だ。敵前上陸の次にまず四斗樽を陸揚げした軍隊は日本軍くらいだろう。
NHKの小野文惠アナウンサーのおじいさんもそうして「国民を殺して敵に勝つ」ための犠牲者だったようだ。
TO JAPAN TO LAY A GOHST
Peter S Rohdes 1998
The Changi Museum 2008
p133
第7章
日本での捕虜
1923年5月16日日曜日、私はほとんどが見ず知らずの900名のものと共に4,000トンに満たない貨物船に押し込まれた。名前は聞かなかったが、船橋のプレートには元々はカーディフで登録されたものだそうだ。誰かがMukki Marudだと言っていた。多分何年か前にスクラップとして日本人に買われたものだろう。確かに水漏れのする桶のにぴったりの運命だ。船倉の下の方には何か得体のしれない貨物が積まれていた。我々は上部船倉に可能な限りの密度で詰め込まれた。一人につき9平方フィート、誰かに触らずに足を延ばすことは不可能だった。
ハッチより外側の船倉は8フィートほどで、10フィートほどの高さが荒板で上下に区切られ、寝る場所を2倍にしてあった。しかしこの部分では実際に使える高さは4フィート半しかなかった。私に割り当てられたのは前方第1船倉の真ん中あたりで、同じところにおおよそ250人がいた。
私はそれまでなんか以下の抽出に外れていたので、155連隊の者は少ししかおらず、未知の戦友の多くになれなければならない逆境にあった。また部隊から抽出されるときにはそれに適した者からという順序になるので、遅い方だった我々の抽出では多くの病兵、懲罰によって抽出されなかった犯罪兵も含まれていた。
全体としてある程度の清潔は保たれていたが、便所までたどり着けないものもいた。便所はデッキの上から突き出した荒い板で、そこから直に海中に用を足すのだ。いかなる種類の紙もなかった。
洗濯場はなく、1日一度デッキに出て海水をホース出かけられるだけだった。洗濯をしたい者は洗いたいものを身につけて、それがない者は裸で海水を掛けられた。「地獄船」ではあったが、155連隊がボンベイからポートスウェッテナムまで乗ったエクマ号のような悪臭ななかった。
給食が毎日2回あり、少量の飯と水っぽい野菜スープだった。これには海水も入っていたが、醤油か味噌も入っており、滋養に富むというわけではないが、実のところ大変良い匂いがしてとー当時はそう思った。
シンガポールを離れると、船は6隻の小船団を組み、最初に5月19日水曜日の夜明頃、サイゴン沖に停泊した。その日はなんとか便所で用を足す以外は船倉に閉じ込められた。そして翌日夜明けとともに錨の巻かれる音がして、エンジンが動き出し、暗闇の中でデッキに上がることが許された。かすかな明かりで見た限り、船団は9艘になっていたが、我々の船より大きなものはなかった。
その後10日間南シナ海をジグガグのコースで走り、5月29日午前、今は台湾と呼ばれるFormosaの台南についた。便所へ何回か行き来する間に景色を少し見ることが出来た。港口は狭い断崖に挟まれているが、それを過ぎて中に入ると港が広がる。港には小さな船がたくさん停泊しており、2隻は病院船らしかった。我々は何と事件もなく5月31日まで台南におり、夜明け直前に狭い水路を抜けて湾に出たが、そこで再び昼まで停泊して、港に戻った。船旅は翌日6月1日夜明けに再開され、私が右に折れて台湾海峡に向かうと思っていたのとは逆に、左に折れて台湾南端を回って、島影が見えなくなると北に向かって東シナ海を進んだ。
それまでは来る日も来る日も海は穏やかで良く晴れ、熱帯なので暑かったが、7月2日水曜日、台風(日本語のtaiつまり大きな風による)に出会った。空は暗く東の方遠くに竜巻というか、ジョウゴのようなものが見えた。暴風が船を片方に傾け、デッキのの上を歩くのはは便所まで、そして用便中が特に危険だった。それにもかかわらず、驚いたことに、海の表面は穏やかだった。思うにこれは風が非常に強いにもかかわらず、安定して変化しなかった為だろう。私がゴウロックからケープタウンへ、そしてボンベイへの船旅を思い出したのははこの時だ。その時最初の2-3日でほとんどのものが船酔いにかかったが、今回は同じような英兵の大洋横断でも見たところ船酔いになったものは一人もいなかった。この「地獄船」で気がついたことの一つだ。
台風は次の日の午後半には治まり、いつもの単調で不愉快なものに戻った。しかし翌日6月3日木曜日、ちょっとした事件が起こった。朝食を取ってから、私は20人程と水浴びに上がった。見ると船首右側の水中でこちらに向かう白波が立った。ブリッジの者も同じ白波を見て即座にサイレンが鳴り響いた。日本軍の監視兵は叫び声を上げて我々を船倉に押し込んだ。しかし私が米軍のものと思われる魚雷を目にする前に、艦首の30フィーとか40フィートで外れた。と思う間に日本兵の銃床を背中に食らって船倉へ10フィートほど落ちた。他の者の上に落ちたので、左足のくるぶしを痛めた他には障害は無かった。私が上に落ちたものの方が怪我はひどかった。
監視兵は大急ぎでハッチを閉じて、我々は暗闇の中に望みなく取り残された。すぐに爆雷が水中で爆発する音が聞こえた。これは15分程続き、海水が外板の隙間から流れ込み、エンジンが停止した。後で聞いたところでは幾らかの損傷があったそうだが、詳しいことは解らなかった。我々は2時間ばかり墨のような暗闇に取り残され、船は不安定な揺れ方を続け、聞こえるのは波の砕ける音と損傷を受けた外板のきしみだけだった。再びデッキに上がることを許されると、船団の他の8隻の姿は消えており、私の乗った1隻だけが東シナ海をのろのろと進んでいた。
4日後、船は内海に入り、正午に関門海峡の南、今は北九州市内となった門司に着岸した。予定より2日遅れで、それは最後の4日間は給食が半量になることを意味していた。
多くの男が航海中に病気になり、第1船倉では2人が死んだ。死体はデッキに挙げられたが、捕虜は誰も上がることを許されなかったので、日本兵がどのように死体を処置したかは私には解らない。なんの儀礼もなく、単に舷側から海に投げ込んだのだろう。
門司に着岸するとすぐに900名の捕虜の全員が陸に追い上げられ、海に面した埠頭の一角にある空き地に集められた。我々の前には木を組んだ高い演壇があり、前に段が付いていた。演壇とその後ろにはテーブルと木箱がいくつか置かれていた。反時間ほど待たされると日本軍の将校が剣をガチャつかせて演壇に上がり、一同にまあ聞き苦しくない英語で、我々は大日本帝国の客人であること、客にふさわしい行いが求められること、という演説をした。住まいと食事と着るものが提供されるが、その為には働かなくてはならない。新しい主人のもとで、命令に従わない者には罰が下される。しかし行儀よく、ちゃんと働けば全員が幸福になれる。(これを聞いて私はシンガポールでの日本軍のクリスマスのメッセージを思い出した。)そして今や、と彼は続けた。我々は新しい家に着いたのだから、病気を持ち込んではならない。そのために全員に検査を行う。士官が先だ。
彼が演壇を降りると、白衣の男が彼に代わり、二人の看護婦がガラス棒と培養皿を木箱から取り出した。しばらく間があって、我が軍の士官が前に追い立てられて一人ずつ段を上った。段の上で彼らはズボンを下ろして兵と、少数の地元の見物人に背中を向けて前かがみになった。看護婦の一人がガラス棒を挿入して培養皿に擦り付けた。士官全員がこのような扱いを受けると、次は兵の番で、数が多かった。私の番が来たので、手順をよく観察すると、どれもそのために作られたものではなかった。すぐにこれが科学的な印象を装った茶番で、同時に、さらに重要なことは士官を我々兵隊の前で貶めることだと解った。
ガラス棒の儀式が終わると、全体が幾つかの小グループに分けられ、私は200名ほどのグループに入ったが、知った者は誰もいなかった。後で気がついたのはここには英軍94名、オーストラリア軍94目の2つのグループからなり、英軍の少尉と南ア軍の軍医大尉という2名の士官がついた。
午後4時頃、近くの鉄道駅まで行軍すると、座って待てと命ぜられた。我々の周囲に監視兵が立ち、半時間ほどするとさらに別の監視兵が来て、我々のみすぼらしい持ち物を検査したが、何も没収しなかった。この時には私たちは船で食べた半量の朝食の後で何も食べていなかっtので、極度に腹が減っていた。1時間程が過ぎ、さらに増えた監視兵の監視のもと、zubonつまりバギーパンツとダークブルーのスモックを着た数人の女が大きな缶を持ってきて、テニスボールほどの雪のように白いかすかに甘い生焼けの飯のボールと少量の水を我々一人一人にくれた。午後7時頃我々は短い行軍の後で列車に乗せられた。
この列車は驚くべきものだった。それまで我々が日本で見たすべてのものは見掛け倒しの安物だったが、客車は驚くべき高品質だった。シートは背中合わせの2人掛けで中央に通路があり、クリーム色の内装は清潔で、塗装には落書きがなかった。発車すると動きはスムースで誠に心地よかった。暗くて機関車は見えなかったが、実は戦争が終わっても見たことはなかった。周囲は概ね市街地で線路側にも建物が建っており、1時間ほど乗っている間に多くの踏切を過ぎるたびに頻繁に信号機が鳴っていた。定かではないが距離は30マイルか40マイルだっただろう。結局午後8時から9時の間に列車は停車し、我々は外に追い出された。
持ち物を全て持って、我々は暗闇の中を2時間以上轍の深い泥道の、時には高い生垣の間の虫の声のするところを歩かされた。誰もが疲れ、本当に病気に苦しむ者もいた。潜水艦の攻撃を受けた時に傷つけた左のくるぶしはとても痛かったが、歩き続けようとしたが、多くの者がつまずき落後し、監視の日本兵に蹴りつけられた。落後したものは我々より数時間後でたどり着いたと後で知った。完全にくたびれ果てそうになった頃、大型コンプレッサーか、何かが音を立てる幾つかの工業施設を過ぎた。道は広くなり、さらに1/4マイルほど進んで右に折れた。何本もの線路を渡り、よろめきながら高い木柵に開けられた門を入った。新しいキャンプに着くと時間は11時半だった。
戦争が終ってから、キャンプから折尾駅までは良い道を通って15分以下の距離だったことを知った。闇の中での辛い行軍は我々の方向感覚を狂わせる、というだけの目的で行われたものだった。
到着するとすぐに我々は英軍と豪軍の二つに分けられ、キャンプの東南にある2つの兵舎のブロックに入れられた。12棟の兵舎があり、鉱山会社が民間人炭鉱夫と家族を入れるために作った、それぞれ10軒の2階屋からなっていた。日炭高松炭鉱会社というのがその会社で、周辺にも似たような住宅街が広がっていることを後で知った。
全体がほとんどペンキの塗られていない木造で、黒い瓦が載っていた。下に1部屋、上に1部屋の2つの部屋があり、西側の屋根のある廊下で繋がっていた。1階東側には下屋が付いていたが、これは監視兵のものだと言われた。床は6フィートに3フィート、厚さ2インチのの藁のマットで、浅い黄色のigusaと呼ばれる植物を細かく織ったもので覆われていた。マットはtatamiと呼ばれる伝統的な床材だ。下の部屋には4枚のtatamiがあり、上には6枚あったので、1人に1枚だ。私は11号棟4号室の1階に入れられた。士官2名は2棟の中で2階の端の部屋を与えられた。デレク・ハンバー少尉は英軍とともに11号棟、ナインセイ少佐は豪軍とともに12号棟だ。
住棟の入り口には廊下の端につけられた引き戸で入ることになっていた。中はコンクリートの通路があり、幅2.5フィート高さ1フィート程の木の段があった。
住棟に入って最初の指示は靴はコンクリートの通路で脱ぎ、裸足か靴下でなければ決して木の廊下や畳に上がってはいけない、ということだった。これは我々にとっては新しい発想だったが、このルールの必要はすぐに明らかになった。2階に上がるには木の段に直接続く狭くて急な階段と使った。1階の部屋は段から、軽い枠に松の格子を組み、薄くて丈夫な薄紙を張ったshoujiと呼ばれる引き違いのスクリーンで隔てられていた。
それぞれの畳には小さいが厚い綿のブランケット、粗い麻らしい袖のとても短い上衣と短ズボン、綿のふんどし、筒型の綿の靴下、指の割れたゴム引きのブーツ、短いゲートル、薬箱の形をしたキャンバスの帽子、ゴム引きのキャンバスのベルトが置かれていた。メッキの水筒、木製のラッカー塗りの弁当箱、それを包む小さな四角いレーヨンの布と汗を拭く小さな綿のタオルもあった。
数分後、我々は追い立てられ、中央の行進場横切って大きな建物、shokudou(食堂)へ行った。木製のテーブルには既に1人につき2つのボウルが並べられていた。1つは親切にも山盛りの白米、上には小さな塩乾魚が載っていて、もう1つは水っぽい野菜スープだった。蘭軍士官ドブリス少佐が自己紹介の後で歓迎の辞を述べた。彼はそこにあるものを全て食べないと、日本軍は食料を減らしてしまうと警告した。これは全く正しい。私と他の数人は頑張ったが、大多数はいかに美味そうでも病気か、疲れすぎていたためにどれも沢山食べられなかった。
ドブリス少佐はいかなる場合にも食べる前にはitadakimasu(いただきます)と感謝の言葉を言わなければならないと述べた。彼はそれを何回か練習させてから、食べるように言った。彼は蘭語で彼自身の励みの言葉"Smaaklijk eten, mijnheren”(皆さん、美味しいですよ。)と付け加えた。たまたま”itadakimasu”は日本で広く使われているが、私達が感謝の意味で言ったのはこの時だけだった。
半時間後、日本軍の士官が現れて、ドブリス少佐に収容所の司令官だと紹介されたが、名前は明かされなかった。45歳ぐらいのちょっとがっしりした体で、完璧な軍装だった。彼は我々が門司で聞いたようなことを繰り返し、続いて我々のこれからについて述べた。我々はこれから炭鉱夫になる。良く働けば食べ物と世話をしてもらえる。ちゃんと働かなければ懲罰を受ける。逃げようとするものは撃たれる!
ドブリス少佐はそれから階級にかかわらず、全ての日本軍人には敬礼すること、これから司令官に敬礼する。その時には大声でkeirei(敬礼)と言わなければならないことをと述べた。これを2回練習すると、司令官が招かれ、敬礼を受けると立ち去った。食事の後でドブリス少佐はもう1つの日本語を教えた:itadakimasita(いただきました)というものだ。部屋に帰ると1時になっていて、何をするにも疲れすぎていて、ただ布団で寝るだけだった。
翌朝6時、5時間に満たない睡眠の後で、昨晩食堂に集まれと命じた日本兵が支給品を着て30分後に食堂に集まれと命じた。上着とズボンは小さすぎたので、それを着終わるまでに、様々なコメントが発せられた。ブーツは指先が割れていたが、それが今まで当たったことのないところで擦れて、多くのものがマメを作って問題になるのは数日後だった。
午前7時30分、我々は中央広場に集まって、よく見ると蘭軍から来た多くの元一緒にtenko(点呼)を受けた。
オランダ人はすぐに員数を取られ解散したが、我々は新入りだったので残されて日本語で人数を数えるやり方を教えられた。この練習には時間がかかったが、その後で両端に穴の空いた小さな木の札が一人一人に渡された。それには日本語で捕虜番号を表す3つの文字が黒いインクで書かれていた。そして私はyon hyaku haci ju番、英語にすれば”480”になった。これを支給された上着に結ぶよう言われ、数字をよく覚え、いかなる時も番号を呼ばれたら返事をするよう告げられた。解散する前に別の蘭軍士官スリウ・ド・ショービニー少尉が日本語でichiban(ナンバーワン)と呼ばれ、我々は炭鉱夫となる前に、次の2日間をキャンプで過ごすことになると告げた。
部屋に戻ると着るもの・洗面具・本以外の全てのナイフなどの私物を差し出すよう言われた。これは倉庫で保管するとのこと。私は餞別の小型ピアノアコーディオン、テーブルナイフ、チャンギでホビーとして作った、アクリルを彫った小物を差し出した。私はこれまでに書き溜めたスケッチ、ロビンソン・クルーソーの原稿とスライドを手放す気にはならず、それをグランドシートの切れ端で包んで、部屋の畳の下、荒床との間に隠した。
我々はキャンプにいるこの2日間の間に床屋に行ってオランダ人の床屋に頭皮まで毛を刈るようにとも言われた。石鹸は特別に手に入りにくかったので、大方のものには良いアイデアだと受け入れられたが、お互いを初めて見たときには大変おかしく、鏡で自分を見てもおかしかった。士官も同様に坊主頭にしなければならず、口髭のあるものはそれも取れと言われた。私達の少尉は立派な口髭を蓄えていたが、それを取らないことは結局不承不承認められた。
その後で私はキャンプの隅々を見て回り、建物と構造に興味が湧いたので小さな手帳と、取っておいた使い古しの紙に幾つかのラフスケッチを描いた。家の中には便所は無かった。
それぞれのブロックには北端に別棟の便所があり、その外にはコンクリートの床に冷水の蛇口のついた洗濯場があった。体を洗うのは共同浴場だった。
日本式の入浴法は、未だに変わらないが、まず前室で着ている物を脱ぎ、とても大きな浴槽の脇に座り、あるいは立ったまま小さな木桶で浴槽から湯を汲む。それで身体中を石鹸で洗い、もう一杯汲んで汚れと石鹸を洗い流す。湯はタイルかコンクリートの床に落ちると排水口から流れ出る。完全にきれいになったら浴槽に体を沈めて、浴槽の周囲にある棚に腰を下ろしてとても熱い湯に浸かり、リラックスする。
私は最近になってなんどもこれをやってみて、それがとても喜ばしい社会的な事柄で、まことにリラックスできることを知った。しかしキャンプでは石鹸は足りず、我々を苦しめた各種の皮膚病が蔓延していたので、湯船に浸かることは許されず、外側で体を洗うだけで満足しなければならなかった。
最初キャンプに入った時には9インチ角の木桶がいくらでもあった。しかし時が過ぎると釘が錆びて木桶はバラバラになってしまい、治そうということも行われなかった。それに代わるものと言えば、まずは食器のコップだが、これは小さすぎて何度も湯を汲まなくてはならず、炭鉱の当直が終わった男たちが場所を争って混雑している中で、困難だった。風呂の湯は木と石炭を燃やすボイラーで温められていたが、燃料の不足から冷水となることもあった。夏の暑い日には問題にはならなかったが、冬になるとそうはいかなかった。英軍と豪軍の兵士達は常に体を洗うことに几帳面だったが、蘭軍兵士は常にそうばかりでもなかったと言っても不公平にはならないだろう。
収容所には士官4名ともに蘭兵約760名、士官1名ともに英兵約95名、士官1名(南アフリカの軍医)ともに豪兵約95名、士官なしの米兵60名が収容されていた。私が思うに元々の定員は1,000名だったものが、半年の間に死んだものがいたのではないだろうか。4名の蘭軍士官は、日本兵に対する時にも部下の面倒を見るにも、非常に良くやっていた。そのうちの一人は収容所の軍医だった。ヘンク・ファン・ラパード少佐で、彼のことは後で詳しく述べるつもりだ。彼と私はとても仲が良くなって、彼は私ともう一人の捕虜:ジェームズ・ワーナーにオランダ語を教えてくれた。私の建築に対する興味を知ると、彼はジムと私に戦争が終わったら、是非オランダに来て町並みと建物を見るようにと強いた。今でも彼が「いいか、ロード、オランダ人はいつでも体を清潔にすることに興味があるわけではないが、町並みは実に美・く・しい。」私は両方を実地に見て、彼の意見に賛成だ。
衣類の洗濯は石鹸が限られていること、全く湯がないことから、困難だった。シラミは数限りなくいて、避けることは難しかった。食堂で誰か最大の注意を払って体や衣類を洗っていないものの隣に座ると、注意をしている方が侵略された。私はベンチの上で、シラミがある者から隣の者へと行列しているのを見たことがあった。
南京虫も別の問題だった。こいつらは畳の中と壁のどんな細かな隙間にもに巣があった。最初私がキャンプに入った時には11号棟と12号棟には嫌な臭いのこいつらはいなかった。しかし1年もするとあちこち移動して、それまであまり清潔にしてこなかった者の後に入ることもあった。
1943年6月10日木曜日、我々は10日間、日曜休みのトレーニングに入った。私たちの隊のあるものはすでに病気で、病院に入っていたが、tenkoが終わると残りのものはキャンプを出て鉱口近くの屋外に行軍した。
そこで我々は我々を指導する歳をとった6名の民間人に紹介され、彼らをsensei=先生と呼ぶように言われた。彼らは皆同じような綿の灰色の服を着て、膝下までのだぶだぶのズボンを履き、それを白か灰色のゲートルに入れていた。綿の上衣を羽織ったものもいたが、着るものは穴だらけで、おそらくは石鹸の不足のために全体が灰色だったにもかかわらず、驚くほどきれいに洗濯がしてあった。我々と同じようなゴム引きのブーツを履き、我々と同じような帽子をかぶっていた。これといった特徴のない服は、国を支配していた戦争屋の発案で、koku min huku(国民服)と呼ばれていたことを後で知った。
彼らの歩き方にも特徴があることに気がついた。当然その当時の日本の男たちに共通するものだが、どちらかというと変なものだった。足を地面から少し上げて前に運ぶ代わりに、常に足の裏を地面から1インチか2インチ放して足を踏みならして歩くのだ。今日では日本の若者はそんな歩き方をしないが、特に田舎に行けば年寄りの中には、彼らが兵隊に行った時に覚えた同じ変な歩き方をする人に出会うかもしれない。
最初の2日間は英軍のものとよく似た、日本軍の基本的な命令を教えられただけだったので、何が求められているかはよくわかり、極めて順調だった。ところが”sai keire!”は腰を深く曲げて体を前に倒し、顎を引き、ズボンの縫い目を追うという敬礼だった。整列しBango!(番号)の命令でihi, ni, san, shi, goなど日本語で人数を確認する練習も何度も繰り返された。4番は時としてshiであり(死を意味することもある)、7はある時はshichiであり、別の時にはnanaであることが分かるにはしばらくかかった。生まれつきか、欠陥か、理解するのが誠に遅いものも1-2名いたが、大方のものは割と楽に覚えた。
しかし後にこれからの炭鉱夫の仕事の何かを学習していると、すぐに問題に突き当たった。これは我々がシンガポールで体験したことだが、コミュニケーションの難しさで、年寄りの先生方は怒り出してしまった。啞の真似をしても得にはならないことはずいぶん前に解っていたので、我々はベストを尽くしたのだが、それでもメッセージは伝わらない。senseiは我々に棒を使うとこまで来た。
それはメガネをかけた小柄なものが前に出て、頭を下げた。そして彼は”Gonmen nasal. Watashitachi wa Nihon-go wo wakarimasen.” (御免なさい、私たちは日本語が解りません。)というような意味の日本語の単語を並べた。突然の静けさが来て、先生たちはしばらく小声で相談して、とうとうこちらを向くと驚いたことに笑いを浮かべて、さらなる忍耐の元に説明とメッセージを繰り返した。
我々は後でトミー・コーウィンという名前を知ったこの戦友に感謝した。何日か経って彼がチャンギで浸透穴から子猫を救った話を聞いた。その晩我々がキャンプに戻ると、senseiのリーダーが監視所の日本兵にこれを話した。数分後彼は再び現れてトミーを指差すと、トミーは監視所に連行された。我々がトミーを見たのは5-6日後だった。噂は山ほどあったが、トミーはスパイ容疑でeisoに入れられたのだろうというのが我々の結論だった。これは明らかに、完全に彼が日本語をいくつか知っていたためで、当時その理由がわからなかったためにkenpei tai(日本の秘密警察)を困惑させたが、トミーが6月21月曜日の休日に釈放されてみると、彼は痛めつけられ、拘留中少しの水しか与えられなかったそうだ。kenpei taiによるトミーの扱いは、少しのものであっても語学能力を一切明らかにしてはならないという、最初の兆候だった。
残りのトレーニング期間で、我々が使う道具を教えられた。これらの中にはジャカマがあり、これは問題なかった。削岩機つまりジャックハンマーだ。次はピクつまりニューマティックピックだ。これには取り外し可能なnomi(鑿)が付いている。しかし奇妙な形をした長い取っ手のついた鑿が出てきて、tsurubashiと言われると、奇妙な名前を発音しようにもお手上げだった。後ろで誰かがshiorbust(糞爆)と冗談を言った。英語の解る捕虜はそれがそれから2年半の間、頭に残った。大方はこれから我々捕虜が使うことになっているものだったが、ジャックハンマー以外にebuとkake-itaもあった。ebuは九州以外ではkagoと呼ばれ、割竹を編んだ、前の空いたバスケットだった。kake-itaは(kakuつまり掻く、itaは板)で、大きな引き鍬で、鉄の歯が付き、長さ18インチほどの取っ手が付いていた。積み上げた石炭をkake-itaを使って足首に挟んだebuに入れる方法を見せられ、真似をしてやらされた。この仕事は前かがみになって長い時間掻き続けなければならないので、とても疲れ、我々にとってははるかに早く楽なので、シャベルが欲しいというものがいたが、即座に”shaberu nai!(シャベル無い)と言われた。実際にシャベルを見たり、使ったりしたのは2年近く後だった。
9日間続いたトレーニングの後が休日になり、ほとんどがキャンプの雑用に追われた。そして1943年6月22日火曜日から、地下の仕事が始まった。朝早く白米と水っぽい野菜スープの朝食が終わると、我々は3/4が同じ飯と、4切れの沢庵(パースニップに似てラディッシュみたいに辛い植物を漬けたもの)の入ったbento baku(ピクニックランチボックス)を持たされた。Tenkoの後オランダ人は出発し、我々もすぐそれに続いた。左に曲がると1/4マイルほどで抗口があり、我々はbuntaiと呼ばれる12名程ずつのセクションに分けられた。それぞれのセクションはbuntai cho(セクションリーダー)と呼ばれる日本人炭鉱夫が率いた。私は日に焼けて機嫌の悪いBuntai choの率いるNana Buntai(セクション No.7)に入れられ、ランプ小屋でランプとバッテリーを受け取った。ランプは付いたままでスイッチはなかった。バッテリーにベルトを通し、後ろに回すやり方を教えられ、次にランプを帽子の前にある布のブラケットに差し込んだ。バッテリーは非常に重く、初めの10日間程は誰もが慣れないベルトの重みで腹筋を痛めた。ここでもまた言葉のせいで少し間が空いた。帽子は帽子と呼ばれるが、ランプはcapuと呼ばれる。日本語の名前は英語をコピーして短縮したのだが、cap-lampは日本語でcapu rampuとなり、それがcapuと省略されたのだ。
タバコとマッチを探している間に全員がランプ小屋の前の広場に集められた。注目と命じられ、道路の向こうにある山に向かって半ば左を向いた。それから入鉱の前と出鉱の後には必ずその山に住むkami sama(鉱山の神様)に、丁寧に礼をしなければならないと告げられた。男たちの間に静かな話し声が広がったが、ずいぶん前に声高に嘲ったりすれば即座に殴られることを学んでいた。しかし中には頭を下げるのが十分深くなく、その場で殴られ、服従と懇願の正しいやり方を教え込まれる者もいた。また坑内で人に会ったら”O anzen ite”(お安全に行って)という言葉で挨拶するようにと告げられた。
そしてついに我々はbuntai choに率いられてエアロックのための二重ドアを抜け、坑内に降りるロープウェイの暗く照らされて頂上駅に着いた。我々の分隊で、殆どの者より年嵩なのでポップと呼ばれたチャールズ・ワーンズは戦前炭鉱夫だったので、すぐに「穴の匂いだ。」と声を上げた。私にとってじめじめした匂いはマーゼー地下鉄を思い出させるものだった。
伏線のナローゲージは東南の方向へ降りて行った。トンネルは25度から30度の斜度で、思うに地中の地層に沿っているのだろう。抗口ではケーブルは斜度をいくらか緩くするためにローラーの上を通っていた。停車場には6両か7両の小さな人車をつないだ列車が止まっていて、コンクリートのプラットホームから段で乗るようになっていた。人車は全て鋼製で長さ10フィートほど、後半の屋根がつき、横は空いていた。それぞれに上向きの座席が4つあり、低い屋根の下で後で見ると日本人炭鉱夫が3人横掛けになって余裕があった。しかし彼らより1フィート以上背が高く、慣れていない我々が乗り込もうとすると、大変困難だった。
我々は頭を膝の間に入れて息をし、そこへ押し込まれた。この奇妙な仕掛けはjin sha(人車)と呼ばれていた。捕虜全員とbuntai choが乗り込むと外に出た肘、足、膝は押し込まれたり蹴り込まれ、大きなベルがなって数秒後には斜面を我々の地底への旅行が始まった。最初は岩を地層に沿っているという以外何も解らなかった。
私は後に脈拍を計って速度、時間、距離を測るようになった。中間で上に上がる人車とすれ違い、きっちり3分後に人車は底に着いた。そこから水平抗を4分か5分歩くと次の人車の頂上に着いた。これは1番とほとんど同じで、再び3分間下降した。
少し歩くと仕事場に着いた。石炭石灰岩の水平抗を掘っており、クズをhakuと呼ばれる非常に大きな鋼製トラックに積み込んでいた。説明できない理由で、私は仕事の細かなところは思い出せない。仕事の辛さと石灰石から出るダストのひどさぐらいだ。
Buntai choで我々が名前を知っているものはいなかったが、英軍と豪軍の捕虜たちは、すぐに彼らを区別するために動物の名前をつけた。首の長いのは「馬」、短いのは「ブル」、「狐」「ネズミ」、そしてもちろん大きな不格好なメガネを掛けたものは「四つ目」。私の殿様、御主人様であるnana buntai choは鼻の張りに吹き出物があり豚に似ていたが、それより彼はいつでもブーブー言っていたので「豚」。一年近く経ってから、彼は前田という名前、正確には「前田さん」つまり「ミスター前田」だと教えてくれた。その頃英国でも同じように、名前にsanをつけるのは形にならないことが多いが、butaの場合がそれだった。彼は言葉の壁の間に橋を掛けようとはせず、常に極端に短気だった。彼が使うたった一つの英語ノヨウナモノは”Speedo”で、短い間をとってはそれを繰り返した。炭鉱に入って数日後には私はすでに仕事が嫌に、何よりもnana buntai choの”Speedo,Speedo”が嫌いになっていた。
私の「日記」、つまり様々な紙切れに記されたメモには、あの顔の下で2年半の10日シフトを続けたことが記されている。最初は昼シフトでキャンプを午前6時に出て、午後4時に帰ってくる。次が午後シフトで午後2時にキャンプを出て夜中に帰ってくる。3番目が夜シフトで午後10時に出て午前8時に帰ってくる。最初の夜勤の途中で石灰岩に面していて、最初の発作に襲われた。激しい腹痛に襲われてシフトが終わると私は支えられて出抗した。キャンプに着くと誰かが医務室に運んでくれ、すぐに隣のブロックへほとんど「運ばれ」そこで親切な衛生兵のウィリアムス軍曹に「心配することはない、ここは病院だから。」と告げられた。病名はビタミン不足によるpellagra diarrhoeaということで、一週間にわたって昼夜を問わず、30分以内に病室の外の便器にうずくまっていた。病室ブロックは多くが蘭軍の病兵でほとんど満員で、私と同じような症状だった。ラパード軍医は私たちのために最善を尽くしてくれたが、薬はほとんど無く、治療といえば軍医の説得と、彼の妥協を許さないが心地よい性格が癒しの殆どだった。このとき病棟には20名ほどの病兵がいたが、私は重症でどんなに美味しそうでも、食べ物を思うだけで吐き気を催し、全て戻してしまった。病院食の米のかゆを少しでも食べることはありえなかった。これを考えると今でも「南海ぐらいだい、ロード?」「解りません、先生。多分30分に1回ぐらいです。」「何か食べたかい?」というラパード先生の声が耳に聞こえる。私は肩をすくめて頭を振る。するとラパード先生はベッドにひざまづいて手を私の方に置き、刺すような眼差しで私を睨み、「ロード、食べなければいけない。自分に強いる、いや自分を克服するんだ。君ならできると私は信じている。」
他の同じような状態にあった多くの男達と同じように、私も元気付けられ、食べるためにベストを尽くし、次第に数週間の後、diarrhoeaの猛威は次第に少し収まった。うラパード先生は毎日やってきて、一人一人に同じ質問をした。「おはやおう、ロード。何回だった?」「おはようございます、先生。多分20回ぐらいです。」「うーん。」と先生はカルレを見ながら「昨日は25回だったね。」少しは気分が良くなったかい?」
蘭軍兵の中には昔から先生を知っている者もおり「自転車直し」と呼んでいた。ラパード先生は人気があり、誰からも尊敬されていた。彼は出来る限りの事をして日本軍に面と向かっており、薬が無くても彼の人格の力と勇気によって、私を含む多くの者達を救わなければならなかった。
誰かの病気が重くなると、食べることも大きな負担になり、望むことは眠ることだった。すると考えられることはそうした状況では誰もが急速に体重を減らした。私はずっと痩せていたが、チャンギでさらに体重を落とし、日本に着いた時には多分8ストーン、つまり50kgくらいになっていたと思う。これはまあ英軍兵士の平均かもしれないが、豪軍兵の中にはもう少し体重がある者もいた。病気になって3ヶ月後に体重計に乗せられると記録は32.5kgつまり約5ストーン2ポンドだった。
diarrhoeaが良くなると、ただの白米であっても食欲が戻ってきた。そうなると入抗して働いていないものは減量食しか与えられていないことに気がついた。しかしコックは病棟にいるものに少しだけ食べ物を融通することができた。これはこっそりとしなければならず、日本兵の監視が少なくなる夜中に行われるのが普通だった。入院してひと月ほど経って、給食に小麦粉が取り入れられたことがあった。キャンプの鉱夫の給食は一食が一人につき長さ8インチ幅3インチ高さ2インチ程の小さなパンになった。重さはわからない。幾度か午後11時頃部屋の外で「しーっ。」という声がした。一人が障子を開けると、コックの一人が無言で部屋にパンを4つ投げ込んだ。書いているだけで、これだけ長い時間の後であるにもかかわらず、パンをちぎって口に入れるごとに感じた幸せを鮮烈に思い出すことができる。またいつまでも続く空腹と、パンの最後の一切れが無くなった時の虚しさも蘇ってくる。
by dehoudai
| 2018-10-11 16:10
| ほん
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