2018年 10月 03日
To Japan To Lay A Gohst 6 |
TO JAPAN TO LAY A GOHST
Peter S Rohdes 1998
大世界で才能を発揮した著者は、泰緬鉄道の現場へ送られた仲間と別れてチャンギ捕虜収容所へ戻る。すでに大世界での活躍が知られていて、芸能担当将校から「ここでもやってくれ。」と命ぜられる。しかし大世界は遊園地だったので、それなりに舞台が作れたが、ここの「劇場」は屋根だけの車庫に丸太の半割りを並べただけのものだった。
しかし著者はここでも創意工夫を発揮、クリスマスに幻燈会を開催する。まあ入隊前の経歴も色々で、プロ並みの芸達者が揃っている。
幻燈会というのは昭和20年代の終わり頃、義兄が幻燈機を買ってきてよくやっていたものだ。次に私が見たのは舞阪町から新居町まで橋を渡ってリヤカーで映写機を借りに行って見た「映画」だった。「DDTでノミや蚊を殺しましょう」というのや「アメリカの機械化大規模農業」なんてのを白黒で見た覚えがある。
チャンギの劇場で面白かったのは「個人の能力を十分に発揮させるには。」というのが英国軍の原点ではなかろうか、という点だ。尾崎士郎の「人生劇場離愁編」を読むと、旧日本軍がこれと全く逆のことをやっていた様子が描かれていて面白い。そこでは「個人の能力を全く発揮させさせずに、」自分の頭で考えないで命令の通りに「死ねと言われたら死ぬ。」のが日本軍であったようだ。要するに戦争が下手なのだ。どうしてそんなことができたのかというと、国民を「最も安上がりな兵器」と心得て、御一新以来そのための教育を続けてきたからだ。
英国印度軍の士官と兵の間には身分的な差別はなかったのだろうか?「自分の頭で考えないで、命令の通りに死ねと言われたら死ぬ。」というのは植民地土民軍のやり方で、奴隷制が基本だろう。
沖縄に上陸した米兵の回想で
最初に遭遇戦となった時「こいつらは死ぬのが怖くないのかと、恐怖で血が凍った。」のだが2-3回の戦闘の後で「日本軍は教科書に書いてある通りのことしかしない」というのが解ると、あとは大人と子供の戦争だった。
というのがそのあたりだ。要するに戦争が下手なのだ。太平洋戦争の米軍の戦死者20万余に対して日本軍の戦死者300万余を「物量の差」で片付けるのは、そのあたりの反省が欠けているからだ。
アベシンゾー君も頭が悪いので、民主主義を大勢の考えから良いものを探し出す制度ではなく「私の言う通りにしなさい。」という発想しかないようだが、多数決で少数を切り捨て「偉い人の言う通り。」というのでは、全知全能の北朝鮮の将軍様の現地指導と似たようなものではないか。役所の「指導」というのがこれと同じ発想だ。
越南末代保大皇帝陛下現地指導の図ならあるぞ。
TO JAPAN TO LAY A GOHST
Peter S Rohdes 1998
The Changi Museum 2008
p119
第6章 チャンギに戻る
私がチャンギに戻る前に、私の大世界での舞台活動の報はいくらかチャンギに届いていたらしい。我々がゲートを入るとそこにいた当直の軍曹が私に可及的速やかに大英印度軍司令部の芸能担当シリル・エイヴリー少佐に報告せよとのメモが手渡された。シンガポールに行くまで、155連隊の戦友と過ごした小屋に私は足を引きずってたどり着くと、幸いなことに他の戦友と共にタイガー・ロビンソンがそこにいた。タイガーの近くに幸い空いたベッドがあったので、足の痛みに呻きながらそこに倒れこんだ。誰かが水をくれ、シガレットを巻いた後で、我々はそれまでの話を全て交換した。
シャワーを浴びて着替えると、まず軍医のところへ行った。軍医は私の足の包帯をかえて、何かの注射をしてくれた。そしてそれなりによく炊けた飯と水っぽい雄牛のシチューという、単調なチャンギの昼食を取ってから、足を引きずって芸能担当士官を探した。大英印度軍司令部のシリル・エイヴリー少佐は45歳ほどの優しそうな男だった。(この時私は23歳)背が高く、異常に痩せた人だったが、それまでは細身で元気な人だったのだろう。司令部の宿舎で彼を見つけると、腰まで裸で、後で知ったが手製の縄のサンダルを履き、空のパイプをふかしていた。足の調子と体全体の調子を聞かれた後で、私の大世界での活躍はよく承知しており、今度はひと月後のクリスマスにパントマイムの出し物はできないだろうかと尋ねられた。
彼が言うにはこれまでのコンサートパーティで活躍した出演者たちは衣装やメーキャップなどを持って「田舎」へ行ってしまったとのこと。少し歩いて「劇場」へ行ってみた、壁のない草ぶきの車庫だった。
片側の小さな囲いが「ステージ」で、ココヤシの幹を半割りにした200名程のベンチが並んでいた。ステージ照明は自動車のヘッドライトから取った電球が6つ程、2-3個の自動車のバッテリーにつないである。感心しないなあ。少佐の宿舎に戻って問題点を話し合ってみたが、良い結果は出ず、明朝までに考えておくと言って別れた。
その晩は朝まで良いアイデアは出なかった。これまでの失敗から、ボール紙に穴を開けた枠に今のプラスティックシートの元祖、セロファンを張ったのスライドを作ってみた。スライドに黒い線画でヤシの木のある海の景色を描いてエイヴリー少佐に見せた。アイデアは誰かが脚本を書いて、誰かが新聞の4コマ漫画のような絵を描ければ、それを私がスライドにする、というものだ。そして朗読者は俳優でなくても構わない。スライドがスクリーンに映し出される間、スクリーンの裏で脚本を読む。さらに私は砲兵観測班の観測機器から取ったレンズをまだ持っていることも伝えた。これを使えば幻灯機が作れるはずで、それを「パントマイム」と呼べばいいと提案した。
少佐は企てにすっかり乗って、考えがあるから明日来いと言った。約束の時間に行くと「現代版ロビンソンクルーソー」という物語の導入になる、詩の原稿が出来ていた。私はそれを夢中で読み、これは「現代版ロビンソンクルーソー」の長編詩になるはずだと言った。「素晴らしい!誰が書いたのですか?」「チャールズ・アーノルド。」「誰ですか?」と聞くと、少佐はにっこりして自分を指差した。さらに聞くと、少佐はインドにいた頃にチャールズ・アーノルドという筆名で何編かの小説を書いたことがあり、創作ではこの名前の方が好きなのだそうだ。この瞬間、彼の笑顔で了解が取れ、私は彼をチャールズ・アーノルドと呼ぶことになり、今でももう一つの名前が出てくるより早い。チャールズは漫画を描くものを見つけたと続けた。別の大英印度軍士官でボブ・シンプソン大尉、後で聞くと本当はロシア人だとのこと。ボブと私はスライドの作り方を相談し、チャールズの脚本の完成を待った。彼はそれをたったの5日間でやってのけた。
物語はすべて長さのそろわない韻文で、若いクルーソーは結婚し、あるとき旧友と飲みすぎて夢を見る。夢の中で彼は1698年5月13日、昔の船乗りとともに「スザンナ号」でサリーの港から船出する。船は大暴風雨に出会い、北緯2度、東経百何度(つまり我々のほとんどがシンガポールだと解る場所)へクルーソーだけを打ち上げる。彼は現地人と出会ってフライデーと呼ぶが、フライデーはこう歌う
島は砂漠にあらず、奥地は深い
フライデーの縁者を(おばさんやいとこ)
妻に取らぬか
何十人もいるぞ!
クルーソーは村を訪れ、フライデーの妹に会う。胸の大きなスペアウィーラという若い女だが、有夫姦の罪で死刑を宣告される。彼とフライデーは祭りの日に大きな鍋で釜茹でにされるところを脱走する。何年もの後、二人は将軍に出会う。チャンギ捕虜収容所の生き残りで、戦争が終わっても自分の作ったルールに慣れていた為、故国へ帰ろうとしないのだ。
許されてペンを取るが
物事をまともにやることを 部下がいないので何も出来ぬことを悟る
クルーソーとフライデーは顔を見合わせ
将軍がゲイなのに気づいた
そのあとの半時間はチャンギの細かなルールや規則へのツッコミだ。何時もほとんど空の食缶の運び方、闇商人、パスポートになる日の丸、缶詰めの買いだめ云々。悲しい物語は将軍が自分用の酒屋で酔っ払っているところで終わる。クルーソーとフライデーは将軍を襲って縛り上げ、何年もの間渇ききった喉を潤す。
フライデーは椅子の下に滑り落ち、
そこで目がさめると
続きは少し先にしよう。
昼も夜もできるだけの時間を割いてロビンソン・クルーソーのスライドを作り、ステージマネージャーとしてコンサートパーティと間に打ち合わせをする間に、足の傷は少しずつ良くなっていった。プロデューサー兼発案者はスカーボローで本職の司会業をやっていたインド軍のK.G.モリソン少尉だ。様々なネタを使い、当然ながら著作権なんてものは全く考えなかった。レギュラーピアニストは第80対戦車砲連隊のジョフ・ナイト少尉でピアノが上手く、いかなる時にもキューを忘れたり変えたりすることがなかった。
1942年のクリスマスの数日前、日本軍は「すべての人が幸せになるよう」天皇陛下の御心に沿って6人に1個のパイナップル缶と、12人に1人の婦人が配られた。前者は受け取ったが、後者は同然ながら謝絶した、というのがその時に流された話で、これを否定する根拠もない。
ジョフ・ナイトはパーティーピアニストとして秀逸であるだけでなく、ショウの出し物に様々なアイデアを出してくれた。出演者の誰もに評価され、ステージマネージャーの私にとっても有難かったのは、彼が演目の音楽の細部まで記憶し、一度決まれば絶対にそれを変えないことだった。これによって彼は伴奏をするだけでなく「アンカーマン」の役割を果たし、皆に頼られていた。クリスマスがやってきて、ジョフと何人かは密造酒の効き目が回っているようで、夜が更けた頃、元はスポーツ施設だったという空き地に出かけた。幾人もの囚人…私も夜の涼しさを楽しんで散歩していた。突然ジョフが「部隊に演説する。」と言い出した。ドラム缶の上に立つと「月を見ろ。満月だ。テラン・ブーラン(マレー語で満月のこと。今はマレーシアの国歌になっているが、当時は濃いラブソングだった。)だ。愛しい人を思い出せ。妻のことを。恋人のことを。彼女たちも今きっと同じ月を見ている。」と言い、ちょっとよろけるとドラム缶から落ちそうになった。私は咄嗟に手を出せなくて、宿舎に連れ帰った。なんといっても彼は我々のピアニストで、翌日のショウには欠かせない。次の日、スライドの仕上げに戻ると、この夜の出来事の記念に「魅惑の月光ナイト」のスライドを作った。
前回、1942年3月から5月までチャンギ捕虜収容所で過ごした時には、工芸品を作ってその金で、あるいは物々交換で個人食の材料やタバコ、葉巻を手に入れた。しかし1942年から1943年5月までの2回目には劇場の仕事忙しすぎて、内職はできなかった。オーストラリア軍のコンサート要員は給与が別で、特別食が与えられていたが、残念なことに英軍では「パウワウ」にはそれがなかった。印度第11軍のコンサート要員も同じで、何か根本的な改善がなければ、私は空腹を抱えたままだっただろう。その結果ある時、午前1時過ぎに舞台がハネてから155連隊の3−4人にくっついて、近くにある沿岸砲へこっそり出撃した。攻撃の目標は灯の原料として売れるディーゼル油だった。
それぞれ油を持ち帰る大きな缶や袋を用意し、パダンの裏を回って腹まである草地を横切り、境界線の鉄条網をくぐると、さらに丈の高い草地を沿岸砲に達する。鉄条網の外側はシーク兵が巡回しているので、音を立ててはいけない。沿岸砲はどうなっているか、誰も知らなかった。距離はそう遠くはなく、パダンから100ヤードくらいのものだったが、たどり着くには時間がかかった。放題の木製ドアには幸い鍵は掛っていなかった。内部はすべて地中深く、直径15フィートほどの円形のシャフトになっていた。全くの暗がりで、全体がどうなっているのかは全くわからない。潜入の一人が前ににじり進んで、とうとうピットの縁を見つけ、円形の縁から梯子を見つけた。
両手に大きな缶を持っていて、しかも音を立ててはいけないのと思われたので、ので降りるのは困難だった。一人ずつ、深さの知れない穴に降りてゆく。穴の底に日本兵がいるとは思えなかったが、それにもかかわらず相当な緊張だったことを告白しておく。降りきったところで休憩したが、リーダーが次の梯子を発見した。さらにそれを降りて数分後には底に着いた。誰かがマッチでロウソクに火をつけ、大きなオイルタンクが見えてきた。入れ物に油を入れ、誰かがロープの束を見つけたので、てっぺんまでどうやって重くいっぱいになった入れ物を上まで上げるかは解決できたが、踊り場から踊り場へと2回引き上げなければならず、時間がかかった。やっとの事で大方は上の空いた缶を持って草原を横切り、パダンの裏を回って自分の小屋へ持ち帰った。まことに長時間がかかり、小屋に着くよりだいぶ前から私も身体中が痛くて仕方なかった。
小屋はイポーやスンゲイパタニにあったのと同じような、しかし床が地面から2フィートほどしかない草ぶきの小屋で、放置されたトラックから取ったオイルタンクを小屋の床下、ちょうど私のベッド下に据えたものに油を入れてそのまま2日ほどそのままにすると、誰からどう缶を見つけてきて、私は機械式のオイルポンプを手に入れてつなぎ、私のベッドの脚にくくりつけた。我々はそこからオイルを少量ずつ、危険と筋肉と汗を考えればまことに良心的な値段で売り、仲間で分けてささやかな特別のものを買うことができた。うまくいけば2回目の出撃となるはずだったが、残念なことに我々の第一回目の出撃のすぐ後でオランダ人が沿岸砲で捕まった。油をとろうとしたわけではないようだったが、彼らが持っていた工具が、日本軍で無くなったものだった。
クルーソーのスライドを舞台用に72枚、それ以外に前振りのジョークに12枚。私はベストを尽くして作り、誰かがくれた色の本を参考に写真用着色料で色を塗った。クリスマスには間に合わなかったが次の週、1943年1月1日に開演の運びとなった。
我々のステージには8フィート角のスクリーンがあり、後ろにチャンギ村の映画館で使わなくなったものを持ってきた、大きなコーンスピーカーが据えてあった。電気部品は取り外されて、そこに連隊信号部隊の加工場で作った2連のマウスピースがついた。マウスピースは椅子に座った朗読者の高さに合わせられ、脚本はスピーカーの前のテーブルに置かれる。朗読者の朗読と、朗読の時間にピッタリ合わせてスライドを出し入れするには、かなり激しいリハーサルが必要で、私はそのために脚本のコピーに、そのためのマークを入れに。チャールズはマーク入りの脚本が間違っていないことを確認した。朗読者の後ろにはオランダ軍が提供した小さな弦楽オーケストラと、脇に二人の歌手が朗読に音楽を添えた。
いよいよ開演の時が来て、ケン・モリソンと私が舞台の両袖から出て、ケンは舞台下手演台に向かってナレーターを務める。私は客席中央のプロジェクターに進む。これは連隊信号部隊が私のデザインで作ったもので、レンズは連隊観測班のもの、ランプはトラックのヘッドランプのものに取り替えてある。ショウの中程でバッテリーを取り替えなければならない。客席が静かになると、止むことのない蝉の声が聞こえてくる。風に乗って流れてくるのは、誰かが近くで個人食を作っているらしい熱したココナツオイルの強い匂い、誰かがシガレットを吸っているらしく草原が焼ける匂い、草原が焼けているのかもしれない。
私がファースト・フライデーと呼ぶと、机の下で滑った
もう一杯飲むとクルーソーは
起きて晩鐘を聞く
フライデーの鐘だ
喜びに驚きに気づくと
今風の目覚ましではないか
そばにはダフネが立ち
手には湿したスポンジ
いつものおしぼりではない
ダフネはベッドに座り目覚ましを止めて彼の頭を撫ぜる
私のわんぱくさんはご機嫌いかが?昨夜は嵐だったでしょう
でも待っていたの 秘密を教えてあげる
耳に口をつけると
クルーソーは飛び上がって 嬉しい、男の子だよ!
暴れ馬でもクルーソーを抑えられない
夜毎息子の入浴を見に家へ
仕事場では若い者が帰ろうとしても
子供の話を延々と聞かされる
しかしこれだけは話しておかないと
時はすぐに流れる
チャンギの暮らしとチャンギも
すぐに遠い過去の悪夢になる
夜毎ケン・モリソンが最後の行を読むと、私は背筋を何かが下りてゆくのを感じ、今この言葉をタイプしていても、同じ何かが下りてゆくのを感じる。
1943年1月第2週、チャンギライスボール劇場での「ロビンソン・クルーソー」の次の出し物は「ダイトン提督」。J.M.Barrieの「ダイトン提督」から著作権無視の全編パクリとおちょくりで、別の隊の士官連が作成した。この時の私のステージマネージャーとしての心配は、台本と舞台に親しむことだった。舞台背景はほとんどジャングルなので、舞台に大量の樹木を積み上げた。私の役は舞台からは見えないが、登場人物のすべてを故郷に運ぶ蒸気船が着いた音を口と手で作ること。
最初の3晩は上手くいったが、4日目の木曜日、消灯のサイレンの数分前に私の前、ベルトのすぐ上で何か大きなものが動くのを感じた。そして次の瞬間まず左、次に右の腹に衝撃を感じた。シャツを引き出したが、暗くて何も見えない。数分で腰のあたりに相当な痛みが広がってきたが、私は蒸気船の音を出し続けた。次に出演者から叫び声が聞こえ、ほんの200ヤード先にあった最寄りの医務室に向かった。かなりの苦痛で、親切なインド人軍医からモルヒネを2本打ってもらい、インド兵2名が私を小屋まで送ってくれた。
次の24時間の記憶はないが、タイガー・ロブによると、その間私はのたうちまわり、叫び続けていたそうだ。次の2−3週間私は腰の両側にひどい痛みを抱えていた。そしてその後20年ほど噛まれた後は消えなかった。私は百足に噛まれたのだったが、自分ではその姿は見ていない。
大砲へ行ってから数週間後に、オランダ兵の数撃は日本兵に警告を与えたものの、何事もなく過ぎた。そして1943年の1月半ば、考えのない、自分勝手なオランダ兵は、再び巨砲に出かけて再び工具を盗んだ。日本兵はバードウッドのくまなく捜索し、私が劇場で痛む腰をさすりながら働いていると、日本兵はオイルタンクと私のベッドの脚に結び付けられたポンプを発見した。夕食のために劇場から帰ると日本兵2名が待ち構えていて、私を逮捕した。私は羽交締めで門近くのeiso(営倉)まで運ばれ、閉じ込められた。そこでは小銃で突かれ「泥棒。」と責められた。何も言うことはないので黙っているとビンタをくらったが、正式の、全力のものだった。そして乱暴に普通のトイレットより少し大きなくらいの、とても小さな窓の無い小部屋に押し込まれた。鍵をかけられ、朝までそこに放って置かれた。小部屋には何もなく、私は否応無しにスノコになった板張りの床に寝るしかなかった。すのこの床はそなまま便所になるというものだった。心配と不安でその夜は楽しいものではなかった。
翌朝、二人の日本兵が私を引きずり出して軍曹のもとに連れて行った。軍曹は前と同じように”You thief”という2語しか発しなかった。いったい誰が誰から盗んだというのだ。しかし私はそんな考えを口にするようなムードでも状態でもなかった。軍曹が兵2名に身振りで伝えると、一人が私にシャベルを渡し、2丁の銃剣で突ついて私を衛兵所から外へ、そしてパダンの北側へ行った。パダンのはずれに来ると衛兵は長さ6フィートほどの穴を掘れと言い、私は灼熱の太陽の下で花崗岩と砂利の多い土を掘った。とてもつらい仕事だった。
しばらくして、たぶん分程だと思うが、日本兵の軍曹が来て私は今掘った墓穴の片方に直立させられた。二人の監視兵は6歩下がって私に狙いを定めた。
私の記憶は、たぶん皆と同じだろうが、ダグラスと私が空襲の間、蚊だらけの側溝に隠れたときのような出来事だった。あと数分で確実に死がやってくる。無感覚になって、運命に従うつもりだった。
4人はそのまま身じろぎもせず無言で、長い時間経っていた。ついに軍曹が何かを小声で命じ、私に向けられた銃口が下がり、軍曹が私の耳をつかんで引っ張り、私を引きずって守衛所へ戻った。途中で軍曹は耳を離すと二人の兵がその代わりに銃で突いた。再び元の小部屋に押し込められると、数時間放って置かれた。真っ暗で音もなく、どのくらいの時間かは思いもよらないが、昼間だろう、戸の鍵が外され、一杯の水が差し込まれた。
前日のいつもの昼食以来、何も食べていなかったが、不快感と全体の不安のため、空腹の痛みはとうに無くなっていて、かすかに気付く程度だった。独房は凄まじい暑さだったが、ほとんどの時間を片隅に腰を下ろし、膝を抱えて、眠れなくともまどろもうとしてみた。木造の建物のどこかから衛兵所の日本兵のものだと思われる声が聞こえたが、何時間もの間私のところには誰も来なかった。
そして次に再び二人の日本兵が来ると、驚くほど小さな声で叫び、私を輝く夕日の中に引き出した。私は再びシャベルを持たされ、パダンの向こう側まで歩かされ、昨日掘った墓穴をもっと深くしろと言われた。そして再び軍曹が来ると、再び私は直立不動で銃口に向かい合わせになった。
次の日の朝、同じことが再び繰り返され、私は再び銃口に向き合わされ、銃殺に直面した。そしてそれまでと同じく、何事も起こらず、私はeisoに連れ戻された。守衛所に入ると軍曹は私の眼鏡を取り、頭の周りに長く強いビンタが飛んだ。耳が聞こえなくなり、私の精神力が奪い取られ、立っているための最後の力も尽きた。立っていられなくなったものが胴体を足で蹴られる所は前に見たことがあった。多分軍曹の力が尽きたのか、ついにビンタは終わった。頭の後ろに眼鏡が乗せられ、私は守衛所の外に放り出され、地面に膝をついた。頭がクラクラしてすぐには立ち上がれず、、二人の日本兵が私を引き上げて立たせ、私の小屋を向かせると銃で背中を突いた。よろめきながら小屋まで帰り、ベッドに崩れ込んだ。誰かが火をつけたタバコを私の口に入れ、別の誰かが水の入ったコップを出してくれた。昼頃にはだいぶ良くなり、自分でいささかふやけた飯ととても水っぽい雄牛のシチューといういつもの昼食を食べに行った。晩には私は劇場に戻った。
まことに不思議なことには、日本兵はタンクと残りの石油を押収しようとはせず、その後数ヶ月は残った。脱柵はその後も続けられたが、これ以降巨砲に出かけたという話は聞いた事が無かった。
我々は「ダイトン提督」の後、ライスボウル劇場では1943年1月末チャンギ村により近い別の建物に移るまでに、更に2つのショウを掛けた。これはバードウッド・キャンプの英国印度第11軍が南司令部地区に移動し、そこの劇場に引っ越したからだ。戦前作られた屋外のコンサートステージで、オーディトリアムは草の上に観客が座る半円形の大きな凹みがあった。誠に大きなステージと良いカーテン、限られてはいたが、背景を吊る装置、大出力の十分な照明と、我々にとってはそれまでに比べ格段の改善だった。そこにホーケストラピットまで付いていた。我々はこれなら本当に素敵なショウができると感じ、その通りにやった。
南部地区でもインド軍地区と同様、多くの演者が「北部」へ行くために消えていた。しかし残ったものの中の数人は新しい素敵なパーティー要員となることを喜んでいた。実力のあるミュージシャンも残っており。ジョフ・ナイト一人のピアノに代わって今度はピットを埋めるオーケストラとなった。ジョフは引き続きピアノを弾き、前奏からキュー出しをこなした。オーケストラには他にストラスモアの第2アコーディオンだったトミー・カーライルがいた。新しい友人になったにもかかわらず名前を忘れたが、指揮者をやるだけでなく、編曲と必要な全てのパート譜を書けるロシア人もいた。全体の効果は誠にプロフェッショナルなもので、パーティ要員と観客の両方に非常に受けた。
前のように我々は日曜日以外の毎晩演奏し、日曜午後には病院へ出かけてそれにふさわしい抜粋編を演った。週日の晩はそれぞれ別の隊に割り振られていて、例えば155連隊は常に水曜日、オーストラリア軍は金曜日にやってきた。
新しいライスボウル劇場では照明がふんだんにあったが、私が時間をかけて考案し、着想を得て様々な色を実現するまで、我々には色が無く、豊かに輝く色を手に入れてからは、他の劇場のステージ・マネージャーの羨望の的となった。ショウが終わった後で舞台を見せてくれ、と言うものに、「どうぞ、ちょっと待ってくださいね。」と言うことが2•3度あった。辺りを片付け、彼らが舞台に上がって周りを見渡しても、舞台にも上にも裸電球しかない。結局「カラーライトはどのですか?」と訪ねるのだった。私は、、、秘密を明かすことはなかった。
答えは偏光ライトだ。トラックから外した大きなガラスを小さく切って偏光ガラスに使った。そして葉巻のパッケージから大きな無色のセロファンをとってガラスに挟み、偏光を変化させることに使ったのだ。しばらく実験をして、思い通りの結果を手に入れると、思い通りに美しい、鮮やかな色を出すことができた。問題は暗くなること、装置が大きいことだった。発想は学校で習って作ったおもちゃだったが、ライスボウル劇場にはそれが6台もあり、ゴミバケツほどの大きさだった。使わない時にはステージ脇に隠しておいたが、たとえ見られても色はなく、仕掛けを理解するまでは何だかわからなかっただろう。大きな照明ボックスは私がデザインして舞台の大工、英国印度軍のビル・デイヴィス大佐が作った。大世界の舞台は自分たちで大工をやったが、チャンギに来てからはそれをビルがやり、出来栄えは大したものだった。
その後3ヶ月半は私はコンサートパーティー以外の仕事はしなかった。相変わらずタイガーの横で眠り、155連隊の烹炊所から朝食をもらうと、すぐに劇場へ行ってビル・デイヴィス、英軍信号部隊の軍曹、今は照明係のピ−ター・ピアースと午前中を過ごす。我々は次週のショウのために舞台装置を作り・塗り・配線をした。午後になるとビルは木工場へ行き、私とピーターはケン・モリソン、ジョフ・ナイト、その他の出演者と合流して次週の出し物のリハーサルをした。それから夕食と1時間ほどの休憩のために各自の宿舎の小屋へ行き、全員が戻ってくるとショウが始まるが、3−4人はケン・モリソンの小屋へ行って次々週の脚本を作る。時にはこれに印度軍のモーフィー大佐が歌と脚本に良いアイデアがあると、加わった。大佐はエリック・オウウェンの名で出演したことが1−2度あった。パーティー要員にはエリックとして知られていたが、戦後インドが独立すると国軍創立のために少将として迎えられ、引退後はいくつかの新聞に捕虜時代の記事を書いている。
有難いことに劇場の仕事は引き続き、私はそのために多くの戦友達が苦しんだ程には、終わりない空腹を感じる暇がなかった。しかしチャンギでの生活は次第に悪い方向へ向かっていた。北部のどこかへの抽出が何回か行わたが、詳しい目的地や仕事の内容が知らされることはなかった。私の名前が抽出名簿に載っても、取り下げられ、ステージマネージャを続けることができた。誰が取り消したかは知らないが、知らないことが賢明だろう。
チャンギでは私とタイガー・ロビンソンが115連隊観測班の最後の2人だった。しかし彼は可哀想なことに”Happy Feet”ー燃えるような、刺すような痛みを足、特に足の裏に感じる痛風に苦しめられていた。ヴィタミンBの不足によるものだった。
私は熱帯性の潰瘍に苦しめられていた。比較的小さなものだったが、脚全面に広がり、悪化して行った。何かしなければならなかったが、次の抽出が日本だと聞いて、熱帯を離れるためだけで私はこれに志願した。こうして私の名前は名簿に残った。賽は投げられたのだ。パーティ要員は私に24バスピアノアコーディオンを餞別にくれ、仲間内の少数で別れの宴を開いた。
by dehoudai
| 2018-10-03 10:03
| ほん
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