2018年 09月 20日
北原君の母 |
朝晩ちょっと涼しくなったなあと思っていたら、北原仁君の御母堂逝去とのこと。
北原君とは竹馬に乗る代わりに、オテンシやシカタニで銀玉ピストルで打ち合いをした。アルミの鉛筆キャップに学生服のセルロイドのカラーを刻んで詰めて火をつけ、ロケットにして遊んでいた。2B弾というロケット花火があり、ビニールの水道管を切ったものに木で銃床をつけたものに逆さに入れると小銃になった。中中裏門のあたりには、その頃の面影が残っている。 その後北原君は憲法学者に。参議院憲法問題調査会の委託研究などやっていたから、憲法学者としては「上がり」だろう。法科大学院の学部長をしていたものが昨年9月20日に逝去。法学部長を2年以上やると皆病気になって死ぬのだそうだ。
子供の頃には母上の記憶はない。北原君に言わせれば「守銭奴」だったそうだが、これは父親がそう育てたのだろう。御父君は俳人にして画家という遊び人で、
片側は人の通らぬ大西日
生きて居る仏に寺の盆便り
秋祭り露天は低く灯を点し
などとやっていたので、これが「守銭奴」を育てたのだろう。両親を見て育ったので、北原君は根に遊び人なところがあるものの、真面目に勉学に励んでいた。
学生時代下宿に遊びに行っていたら、壁際に小さく寄せた彼の布団以外、床一面に30cmほど本が積んであるので、本を体の大きさに掘って寝袋で寝たことがある。
全く専門が違うので教えられることが多かった。ラスカサスを教わったのも彼からだ。”Manifest Destiny”を教わったのも彼からだ。
御母堂晩年は開成館高校の前の小公園に椅子を出して、涼みながら行き交う人を観察しておられたが、昨年、介護施設に入居したとのこと。95歳という歳からすれば大往生だ。今頃亭主や愚息の世話を焼いているのだろう。
by dehoudai
| 2018-09-20 07:26
| きせつ
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