2018年 04月 19日
幕府衰亡論12 |
御大老井伊掃部頭の墓所は豪徳寺だということで、wikiには豪徳寺蔵の肖像画があるようだ。近代的な肖像だが、写真では無いのでどの程度の生態模写なのか、彼の事績を絵に描いたものかはわからない。
幕府は安政六年六月二日を以て神奈川、長崎、函館の三港を開き、その外交官の駐在を江戸に許すことを實行したり。
尊攘黨は
(一)
幕府は勅許を經ずして條約を擅に調印し朝廷に対して不臣の實を表したり。
(二)
幕府は幕府は外夷の虛喝に威嚇せられて外國の請求に應じ日本國の躰面を辱めたり。
(三)
幕府は朝廷より水戸に下されたる密勅を妨げ有志の諸侯有司志士仁人を刑戮して暴惡の政を施せり、
(四)
幕府は外夷の使臣を寵遇し外夷の商賣等に利益の貪餐を專にせしめ日本の疲弊を顧みざる者なり。
として萬延元年三月三日を以て御大老井伊掃部頭を暗殺したが、福地桜痴君は
尊攘黨の精神は金鐡を透すべきも、其砲彈は船舷を透すこと能わざるが爲に、開戰せば一敗地に塗れしならん。
として、もし天下が尊攘黨の主張するところに従い、国躰の安寧を保ち得たかというに、これは無理な話とする。後に馬関戰争に於て長州藩が多国籍軍に一発撃ったら百発返しだったことがこれを証明している。長州藩だの薩摩藩だのが攘夷實行者であったから局地戦で終わったが、幕府が攘夷を實行したならば、敗戰の後に
英佛二國が支那に戦い捷てる餘威に乗じて日本に來たり清國と同様なる條約
を押し付けられ、植民地への道を進んだであろうと論ずる。馬関戰争・鹿児島戰争の後に、長州薩州の尊攘黨は手の平を返して、攘夷には文明開化が必要という阿部伊勢守・井伊掃部頭の主張に従うのだが、萬延元年には「とにかく倒幕」というのが空気だ。開港後幕府が平民の怨嗟を集めたのは
洋金一弗を以て我金貨に交換すれば小判三十兩に足らざれども、洋金一弗を我一分銀に交換すれば七十七兩三分
となり、百弗を以て三百五十弗餘となって我國から膨大な金が流出、これに引きずられて物価が騰貴したことだろう。これは御大老井伊掃部頭が悪いと言うより、多年に亘り財政困難を一時に彌縫し続けた爲である。
五國條約が降って湧いた禍で内閣は「想定外」を繰り返すだけだったが、1世紀半の後未だ「カネメ族」は野放しで財政困難には歯止めが無く、おっぱい触りたい輩をトカゲの尻尾切るだけだ。勘定奉行を取替えても積年の宿痾は治らんだろう。
by dehoudai
| 2018-04-19 13:04
| ほん
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