2018年 02月 21日
皿飯 |
悲喜邊緣的旅館でベストセラー作家になった米国のJamie Fordさんが「南部の家庭料理」ということで紹介していたのがこれだが、
なんかねえ、、、という感じ。先日は息子殿が"Cheese Macaloni"というのをくれたのだが、これが「料理」かというと、、、。さらに私はどうもプレートというのが馴染めないのだ。中華料理だとテーブルの真ん中に回転式のサーバーが置いてあって、皿と椀は自分で取り替える、というのは味が混ざらない工夫だろう。
振り返ると我が家の食事も皿だけでなく、茶碗・丼・汁椀・小鉢・小皿と結構道具立てが大変だ。しかし何でもかんでも同じ皿に乗せてしまうというのでは、唾液も出にくい感じがする。
人件費をなるべく安く、ということで最近ブッフェ〜大皿が流行りだが、一人で食うのは味気無かろう。会話という点ではカウンターというのも一つの日本文化だ。
西洋料理の「オーダー」と日本料理の「注文」というのでは、大いに趣が違う。「オーダー」は客から料理人への一方的な命令が基本で「どんなオーダーにもお答えします」という通り、お客様だけが神様だ。これに対して和食は料理人も神様なので、互いに相手を尊重しなけらばならない。これを誇張して寿司屋の頑固親父みたいな演出もあるが、あまり過剰なのもいただけない。素人がこの前美味かったものを注文するより、神様が市場で見つけた今日一番美味いものを食べさせてもらう方が賢い。
同じ店に何年か行きつけると、終いには「オーダー」も無くなり、神様が食べさせたいものを食べていれば、それが一番美味、ということになる。これを「大発見」したフランス人がミシュランの三つ星を放り出して、東京で「カウンターフレンチ」を始めた、とネットにあった。
シアトルの寿司屋でカウンターに日本人の若者がいたので、話を聞こうとしたら、ぴゅーっと逃げて行ったことがあった。呼び寄せて聞くと「ハワイから来たんですが、ニホンゴワカリマセン。」とのこと。寿司屋のカウンタートークは店の評判を決めるので、やってはいけないと止められていたのだろう。
プレートの上で、自分で取り合わせを製作する、というのが大皿料理の要諦だろう。さらに古典的な取り合わせは通りを歩きながら、好きなものを少量ずつ買い求める、という台湾の夜市だ。あれは観光客向けでなくて、勤め人の夕食が元になっているのではなかろうか。近年台湾全土を土俵にファミマとセブンのガチ勝負が繰り広げられており、そこへ吸収されるものもあるだろうが、それだけでは済まないはずだ。
by dehoudai
| 2018-02-21 17:51
| たべもの
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