2018年 02月 20日
2月23日 |
というわけで尹東柱君の命日の翌週は家尊の命日だ。
この頃にはすでに「五族協和」という理想國は消えて「満洲に行けば食べ物がある。」という大日本帝国の裏庭になっていたようだ。その後程無くして満州国は消滅。
こちらは「渡満の頃」の写真。遠州人の尻の軽さは持ち合わせていたのだろうが、国家崩壊という現実を体験して「国家などという恐ろしいものに近づいてはならん。」と、戦後は「どーでもいいや。」という人生だった。
興味深いのは義兄が語った満鮮国境のタングステン鉱山での話。新京へ出張すると、土産には必ず老酒の巨大な甕を荷車に乗せて持ち帰ったそうだ。若い頃は単に「へえー。」だったが、今にして思えば普通なら手軽な高級酒を持ち帰るだろう。しかしこれでは職員が飲んでおしまいで、工員までには行き渡らない。安酒の大甕なら職員だけで飲み干すわけには行かないで、工員にまで行き渡ると考えていたのではなかろうか。今だに「父の教え」に気づくことがある。
もう一つ思い出した一つ話は昭和40年頃、久しく連絡のなかった友人が訪ねて来て、
5万円ほど貸してくれないか。
と頼まれたというもの。妻が聞き耳を立てていると、やって来て
10万円用意しろ。
とのこと。今で言えば20万か30万円くらいか。大金とまでいかなくて、まとまった金だ。後で
返してくれるわけないじゃないですか。あんたは外面が良いばかりで、尻拭いをするのは私ですから。
と一悶着あったようだが、家尊の言い分は
俺のところにまで来るようだと、ほかに借りるあてもないのだろう。5万円と言われて普通なら1万円くれて追い返すのかもしれないが、10万円渡せば、それで片付くこともあるかもしれない。それでこそ金が生きるというものだ。人に金を借りるのは不幸だが、貧乏だとはいえ、貸す金だけでもあるのは幸せではないか。
と言われて開いた口が塞がらなかったそうだ。当時はまだ「金は困らないための道具で、幸せになるための道具ではない。」という価値観が残っていたのかもしれない。今なら「スタンドプレイ」というところだがこれは「粋」というべきかもしれない。母も大正2年生なのでそうした「粋」というのが分かる口で「お金も無いのに粋なことをするんじゃない。」と荒れ狂ったのだろう。
それが今では舅を追い出した鬼嫁が、相続権者の配偶者にしか過ぎないのに、義兄を抜きに遺産を横領して2,000万円を手に入れたと威張ったり、医者が患者を殺しまくって、いつでも使える普通預金が1億円になったと威張って見せるが、威張るしか幸せを実感できないのが哀れだ。こういうのを「不粋」という。
粋なお方は1980年卒ということで29回忌になるのだろうか。晩年常用だった角瓶ではなくFourRosesだ。29Years Oldだと父も喜ぶだろうが、ケタ落ちの3Years Oldくらいだ。このくらいが「わび」なのよ。
by dehoudai
| 2018-02-20 11:06
| きせつ
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