2017年 12月 16日
浜松駅北口 |
浜松駅北口にはまた超高層マンションでも経つらしい。先日は街角でぶ厚い書類を抱えたT君がそんなことを言っていた。
旭町は元、八幡池と稱し、明治20年頃まで田畑と蓮池ばかりであった。明治の始め法雲寺の南の八幡池に始めて家建つ、その家、籠を竿にかけて高くつるす。こは如何なる故とも知り難し。人々魔除なりというは心得難し。鍛冶町の職人この村の池端を浄めて火を焚き神事となす。これぞ庭火というふいご祭なり。
明治22年2月東海道線鐵道開通のとき、浜松驛前は廣々とした埋立地で今の松江町に通ずる倉庫通りやその北の中通りは田圃道であった。以後漸次市街地を形成し明治37年正式に浜松に合併、大正14年5目2日地籍整理が行われて旭日昇天の語義から旭町と改稱した。
國鐵濱松驛は今の位置から約450米南方に建設を予定されていたが、浜松から遠過ぎると猛烈な反対對運動が起って、現在地に變更となった。
浜松風土記
会田文彬
昭和28年12月
浜松出版社
鍛冶屋の職人はやがて織機を作り、オートバイを作りして現在の浜松が成り立っているのであって、ふいご祭りも浜松まつりの源流の一つだろう。ふいご祭りなら「鉄火」で話が通る。鉄火肌の職人というのは仕事が終わると前後の見境がない。昭和30年ごろ、南口に工場を持っていたO君の親父が、知らないおじさんに送ってきてもらったことがあったそうだ。
あのおじさん誰?
と聞くと母親は吐き捨てるように
馬だよ、馬。
といったのだが、子供の頃には何の事か解らなかったそうだ。
高級デパートの地下にはろくな食べ物が無い。その割りには中高年のおばさん族で賑わっている。
流石にお目が高くていらっしゃいますわね。
と言われたい「構って頂戴族」だ。「構って頂戴」も不治の病なので、小遣いがあれば高級デパートでお買い物だが、金が無いと誰も構ってくれず、痴呆老人となる。
八木綾美さんが亡くなったというので、更紗屋が何か知っているかと思って寄ってみたが、詳しいことは知らなかった。
石橋君は2月ごろ、玉山を見に台湾へ行きたいと言う。40年前花蓮から山越えのバスに乗り、峠の休憩所で原住民の親父が
お前は内地からきたのか?
と堂々とした日本語で聞かれたのが、高山族との出会いだったそうだ。
米国ではトランプ君が法令をこの50年で20倍になった法令を1960年の水準に戻す、と息巻いておるが、なかなかうまくいかないようだ。
by dehoudai
| 2017-12-16 12:00
| まちづくり
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