2017年 02月 27日
満州の光と陰 |
コレクション戦争X文学
集英社 2012年 所収
万宝山
いわゆる万宝山事件を開拓民の側から描写する。帝国の膨張が朝鮮人を満州に追いやり、中国人との水争いが死者を出す。後にはこれが朝鮮国内に反射して、中国人排斥へとつながる。地政学的地理関係は今と変わらない。
日清戦争後の「国権伸長」に日露戦争で拍車が掛かり、第一次大戦による大正モダンの浮かれ騒ぎからはみ出した、あるいは押し出された人々は
開拓といっても荒野で木の根を掘るのではありません。支那人が遅れたやり方で農業をやっているのを、日本の進んだ技術で近代化してあげるのです。
この広大な沃野に米国式農業経営でもって、トラクターを駆り回したら、なんと愉快なことだろう。
というわけで米国在住の日本人農民の二世を呼び寄せる計画を立てた。
一人当たり一万弗に相当する農機具を米国から持って来て、満州に移住する農業経験者には、一人当たり百エーカーの適地を無償で提供することとし、
という計画だったが、関東軍の東條参謀長の
満州の農業は単に経済的に見た農業移民的見地から行われるべきではない。国防的見地から、できるだけ多数の日本農民を入れるべきで、農業を機械化し、営利的に経営しようというのは不都合である。ということで頓挫してしまった。
満州の終焉
高碕達之助
実業之日本社 昭和28年
トラクターの写真は開拓農民を呼び寄せるエサに過ぎず、満蒙開拓団はハナから屯田兵だった。子供達は内原の訓練所へ集められて「大型化・集約化・機械化」の代わりに大和魂を叩き込まれた。機械はなくとも大和魂があれば何でも出来るというのは、主体思想があれば何でも出来るから、何でも人力という現在の朝鮮民主主義人民共和国と同じ。
精神主義というのは煎じ詰めれば
俺がお前の言うことを聞くか、お前が俺の言うことを聞くか?
となり、今も国民教育のために連日テレビから国民に注入され続けている。
日満鮮の間に横たわる大地では、万宝山事件が昭和6年、平頂山事件が昭和7年9月、ということで父は昭和12年7月に吉林へ赴任するとそこは戦場で、翌年にはとても子連れで通化へ、というわけにはいかなかったのだろう。
by dehoudai
| 2017-02-27 14:26
| ほん
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