2017年 01月 27日
神道的神と民族的神 |
未来社 1989
題名が凄いのだが、柳田邦男先生はイネの道についてはお書きになっているが、イモについてはお書きになっていない。と声を上げた斯界の先達の大先生であるようだ。第二部が伊吹山の麓深く分入って、里人の暮らしの様子をじっくり見、第一部ではそれを日本人にとっての神とは何かに敷衍している。まことに示唆に富む著作だ。
第一部に図があるのだが、設計屋の悪い癖で、このダイアグラムを少しいじってみたくなった。大正月、小正月などの決まった日にマレビトが現れるというのだが、どこから来るかというと水平的異界からか、垂直的異界からか、ということになる、というのが論旨だ。ならば2dではなく3dで作図せねばならんというのが悲しい習い性だ。
私には井伊谷は飯谷であって「もろーど様」は異界から遠州に水田稲作をもたらした髪、というイメージがつきまとう。大河ドラマはチャンバラがないと「絵にならない」かもしれないが、井伊家はそれよりも1,200年以上前から
男は「今日は敵の首をいくつ取った。」と威張るばかりで、酒を飲んでは寝てしまうから、食べ物を手に入れて食事の支度をするのは女の仕事だ。
というのが井伊谷領主の仕事ではなかっただろうか。関ヶ原で12万石という筆頭の恩賞を得て近江の太守になり、紀尾井坂に住むようになったのも、サイドビジネスだろう。
神道的神ではなく民族的神は日々増殖しているわけで「都市伝説」なるものが生まれるのもそのためだ。第一部第二部を通してのテーマは「イモ」であって、例えばなぜ「紅白」が目出度いのか、といったことにも通じるかもしれない。本書では白=米、赤=イモあるいは雑穀と捉えている。
そしていつのことか米がイモを食…この場合は経口摂取ではなく、侵食という意味で…したのではないか、というのが本書の論点で、豊富な事例が示されている。これもついでにイメージ化してみた。 この手で日の丸の旗もイメージにできるのだが、混ざってしまうとちょっと面倒だ。妻に怒られそうなのでやめておいた。こうした民俗が残るのも「異教徒は滅してしまえ。」というのが無い八百万神の国だからだ。有難や。
「紅白歌合戦」は「合戦」が軍国主義に繋がるからイケナイ、というGHQのお達しで「紅白歌くらべ」とか称して始まったそうだ。源氏が白旗平氏が紅旗となると、紅旗は1185年に壇ノ浦に沈んだ。白旗軍の守護は厳島神社である通り、この頃までの日本は仁徳天皇陵に見るように、意識が大陸に向いていて、瀬戸内海が日本の中心みたいな気がする。
清盛が右大将を固辞して1192年に征夷大将軍になったのは、京都に常駐しなければならない右大将だと、京都の魑魅魍魎の毒にあたるのを恐れたからだろう。征夷大将軍なら鎌倉に居れば良い。
どうもアベシンゾーくんは明治の元勲同様、源平の合戦、秀吉・家康の西国処分、馬関戦争と負けっぱなしだった西国の血が濃いのではなかろうか。白旗はイカン、やはり平家の赤旗である.
日本建築史圖集 新訂版
日本建築學会編
彰濃國社刊 1980年
など見ると、この屋敷の中で250年以上にわたって天下取りの刃を研いでいた感じがする。征夷のためには米国の狗に成り下がってもヨイノデアル。というわけで日の丸の真ん中は赤なのデアル。
図書館の郷土資料室に天白磐座遺跡の調査報告書があった。本書ではこの遺跡を井伊谷を潤す水分(みくまり)を守るもの、と推定、井伊谷を「井の国」であろう、としている。西には「穂の国」「備の国」「肥の国」「豊の国」坂東には「毛の国」などがあった頃だろうか。
by dehoudai
| 2017-01-27 14:40
| ほん
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