2015年 04月 11日
梁田戦争 |
沢村田之助曙草子
芳川春涛閲 岡本起泉綴 楊洲周延画
島鮮堂綱島亀吉 明治13年7月3日御届
新日本古典文学大系
明治編9 明治戯曲集 所収
岩波書店 2010年
に見る慶応4年4月、宇都宮に進駐した官軍の様子。幕軍同様官軍にも「食い詰めた浪人。」というのも混じっていたようだ。上掲書はどちらかといえば幕軍より、ではあるが、清水次郎長が官軍の駿府進駐の警護を命ぜられ、官軍の中に黒駒勝蔵を見つけたので、
御奉行様、奴は官軍隊長池田勝馬なんぞじゃございません、関八州のお尋ね者、黒駒勝蔵てえ太えやろうで、
と言うと御奉行様に
シッ、その方左様なことを申すと首と胴の間の風通しが良くなるぞ。
と言われたのが有名な話。
明治100年栃木県の歩み
毎日新聞宇都宮支局 昭和43年
によると幕軍が3月8日夜、梁田に宿をとったのは、
当時梁田には遊女が200人以上居り、
「ここは熊谷からも遠いし、官軍なぞ来るはずがない。どうせ、あす知れぬ命じゃないか。……」とばかり、その夜は遊女を囲んで飲めや歌えのドンチヤン騒ぎ。夜明け近くまで遊びこけていた。だから、戦うどころではなかったのである。
これに反し官軍は錦の御旗をかかげ、志気大いに高まっていた。全員錦の旗をかたどった布片を肩につけて奮戦した。
とあるが、官軍も幕軍同様、戦争は酒の勢いでやるものだったようだ。また戦争はオサムライさんがやるものなので、当時の平民にとっては「戦争」は見物するものだった、という話も収められている。
村人ら官軍見物
夜もすっかり明け、話を間いて近在の人たちがドッと見物に押しかけてきた。婦人たちは化粧をして晴れ着を着てくるという念の入れ方。まるでお祭り騒ぎだ。しかし、まだ戦いは終わらず、流れダマにあたって死んだ気の毒な娘さんもいたという。攻撃をしかけたのが遠く関西からやってきた官軍だ、というので「ひと目でよいから官軍とやらを見たいものだ」と女、子供まで集まった。
これと同様の
おい、
今度公方様と天長様が戦争やんだってなァ。
そいつァ豪気だ。見逃せねェぜ。
といったものだったという話が
戊辰物語
東京日日新聞
岩波文庫 1983
にも見られる。参加出来無い平民にとっては見るだけなので、三社祭の大仕掛けなもの、と言うところだったろう。
梁田宿では
軍資金捨て逃走
戦闘は午前十時ごろにはほとんどおさまった。幕軍側の死者六十余人が確認されたが、実際には二百人にものぼったといわれる。官軍も二十人の死者が出たが、死傷者は熊谷の本陣に運んだ。染田宿の南から放たれた火も、十時ごろようやく下火になったが、染田の下町は二、三軒を残して全部焼かれてしまった。さいわい、火事による村民の死傷者はなかったという。ただ、大砲や小銃タマに追われ寝姿のままの遊女がたくさん逃げてきた、と近隣の村人たちが語っている記録が残っている。市街戦といっても一方の幕軍が不意を打たれ、始めから逃げ腰だったので、激しい撃ち合いとはならなかった。
敗れた古屋ら幕軍はその夜、渡良瀬川を渡って小中村(現、佐野市小中町)から田沼、葛生へと逃走、武器、荷物も全部残したまま逃げてしまったが、その荷物の中には多額の軍資金がはいっていた。おかげて宿舎となった二三の遊女屋では思わぬ金もうけをした、という話も伝わった。幕軍は、宿舎の近くの長福寺の納屋に入れておいた弾薬を敵の手に渡すまい、と納屋に三〜四回小銃を撃ち込んで逃げたが、さいわい納屋は爆発しなかった。これが爆発したら梁田村は全滅していたかもしれぬ。
明治38年 清国
大正9年 シベリア
昭和16年 中華民国
昭和17年 本州東方
昭和18年 飛行中
マーシャル諸島
山東省
東部ニューギニア
ブーゲンビリア島
比島上空
昭和20年 宇都宮陸軍病院
ルソン島
ルソン島
昭和21年 満州陸軍病院
ソ連
というのが梁田村の永遠のゼロだ。
この梁田戦争の頃の平民の「戦争観」を「曙草子」からもう少し探ってみよう。
当時の日本は「天皇陛下の体です。大事にします鍛えます。」ということで、身体が個人のものでなく、国家のものという「国民皆兵」の時代より以前の、セックスが個人の持ち物だった時代だ。家督相続が人生の全てを支配していた武家、あるいは家産のあるものにとっては、繁殖行為は家門繁栄のためのものだったから「純愛」といえば心中が御定まりだった。
それと対照的に、無産者にとってはセックスはお互いに気持ち良くなるための純粋なものだった。また佛門では女人禁制が厳しく求められてており、そこには衆道文化が花開いていた。繁殖行為では無いから純愛、という解釈も成り立つのではないだろうか。少なくとも岩橋久米氶にとっては戊辰戦争は「女の立ち入ることの無い、純愛の背景」として重要だったようで、彼もまた東叡山凌雲院天山和尚との純愛に殉じたのだ。
官軍の若者は、今日でも普通に見る「悩める若者」が丁寧に書き込んである。それと対照的に右端の岩橋久米氶君は、東叡山凌雲院天山和尚との純愛に殉じる、という「物語」に耽溺しているので、完全に「役者絵」になってしまっている。同じく「遊女を囲んで飲めや歌えのドンチヤン騒ぎ」ではあっても、官軍と幕軍の若者の心情には違いがあったろう。
岡本起泉綴 楊洲周延画 になる「沢村田之助曙草子」は江戸っ子向きの草双紙なのだろうが、出版された明治13年には、すでに官軍が現実であり、幕軍は「逝きし夢」となっていたのかもしれない。成島柳北先生が「柳橋新誌」で悲憤慷慨したのが明治7年刊、明治8年発禁なので、目まぐるしい。
by dehoudai
| 2015-04-11 12:31
| はんせんろん
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