2014年 09月 17日
末期の水 |
床の上にセミの死体が転がっていた。昨夜ネロ君が庭で捕まえて来たのだろう。羽がちぎれて動かなくなると、見向きもしない。
と思って良く見ていたら、 も こ と脚が動いた。困ったことにまだ死んでいなかったのだ。とっさに末期の水をくれた。指に水を付けて、長いストロー状の口の先に垂らしておくと、見ていても分からないものの、暫く置いて見ると水が無くなっていた。まだ水を呑むらしいと思い、砂糖水を垂らすと、これも吸い込んでいる。脚もときどき動く。
如何にも秋口らしく、セミは繁殖が済むとさっさと死んで行くが、昨夜は蚊が食糧補給の波状攻撃にやって来たので、蚊取り線香をたいた。
西洋三教では虫の命などどう考えるのだろうか?吾人は仏徒なので、人間の命も猫の命も虫の命も、まあ似た様なところがあると考えてしまう。
ネットで見るとそもそも昆虫には心臓が無いそうだ。そのかわり「脈」だけはあって、ストロー状の口も脈のあるうちは水分を吸い込む様に出来ているのだろう。人間でいえば脳死状態の様なものかもしれない。
虫は自分で命を絶ったり、不老長寿の薬に血眼という、馬鹿なことはしないだろうから、その点では生き物としては人間より真っ当かもしれない。末期の砂糖水など余計なお世話だろう。そう思ってそのままにしておいたら30分程で動かなくなった。
台湾原住民族の「首狩りの成果写真」というのを見たことがある。村の若者が並んだ前に、隣村の若者の生首がずらりと並べられているが、生首の表情には不思議に「怨念」じみたものが無い。「あれっ。」という驚きの表情が殆どで、「オレの負けです。」みたいなのもあれば「痛いじゃないか、ヘタクソ」みたいなのもある。こっちの方が自殺だの不老長寿だのに較べれば、生き物としては真っ当なのかもしれない。台湾原住民族の首狩りは成人式だったのだそうだ。
成人式の首のやり取りに「怨念」が感じられないのは「自分で決める」ことであり「自分に由る」からだろう。
これと正反対の極にあるのが「お国のため」だ。
「報国」が「自分で決める」ことで無く「自分に由る」ことでも無くなった時から「怨念」が始まる。宇垣纏が海軍航空隊全軍に「自決」を求めたのはそういうことだ。そして宇垣自身は玉音後の出撃によって自らは靖国に入らず、大将昇級も捨てた。
「報国」を為政者が無理強いすることから「怨霊」は生まれ、「怨霊」を封じ込める仕組みが必要になる。それが靖国というシステムの裏側だ。
昭和17年4月24日のルーシー・モウド・モンゴメリの自決もその辺りに解くカギがあるかもしれない。
by dehoudai
| 2014-09-17 17:01
| きせつ
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