2014年 08月 07日
夏休み |
宮益坂で飲食店をやるのだそうだ。渋谷の土地勘というのがさっぱりなので、ちょいと調べてみた。 宮益坂というのは元は富士見坂と呼ばれ、厚木街道の千代田稲荷門前から目黒川へ下る道なのだね。富士見坂というものの、大山詣だ。明治23年になっても
千代田稲荷は將軍御上洛の留守に、大奥老中滝山さんの部屋へ放火があったという、特定機密指定を受けた幕府の極秘案件を、江戸中にバラまいて評判になったお稲荷さんだ。
関東大震災後、千代田稲荷はドロボーコージローの百軒店開発の為に引抜かれて、跡には御岳山が座っているそうだ。コージローにとってはオイナリサンも遊郭も客引きの添え物だったのだろう。
1970年頃にも井の頭線のガード下には「英文ラブレター代書」という戦後の名残が残っており、西武百貨店の裏にも同じ様に焼跡の雰囲気が漂っていた。コージローは震災の折には貴族の屋敷を接収しているが、戦後は華族の屋敷に手を付けている。自分がプリンスになりたかったのだろう。 円山町には以前一度だけ探検に行った事がある。同窓会の跡で同級生の悪友が、酒の勢いみたいな振りをして、
オイ、コヤマ。円山町へ行こうぜ。
と出かけたのだが、こういう道に外れた事をしようとすると、というか酒の所為で身体が機能しなかった。学生時代にはあるか無しかの可愛い和毛だったのが、この時にはおばさん風の剛毛になっていて、時の流れを感じた。
渋谷戦争と言うのは1946年7月19日「連合国民」の格で、渋谷の町をジープで巡回していた臺湾系渡世人の若者が、玄関前にふんぞり返っていた渋谷警察署長を見て、つい機関銃の引き金を引いてしまったものを言うが、強盗ケータと泥棒コージローの渋谷戦争は、今でも続いているのだ。宮益坂というと、強盗ケータの手のものだな。
戦前戦後の渋谷駅周辺を語った好著は
昭和八年 澁谷驛
宮脇 俊三
PHP研究所 1995年
なのだが、
奥野健男と田村明は小学校の同級生でさ、
という鼎談が面白いのだ。イイトコのボッチャン連、斯界の重鎮が3人で
ハチ公ってな忠犬でも何でも無い、あそこに座ってれば、誰かがエサをくれるのを知ってたから、座ってただけさ。
などと小学生に戻って渋谷駅周辺を語っている。
ちょいと昔の地図を重ねてみましょう。 明治13年測量、明治19年に赤羽根鉄道を書き込んだ明治30年の地図ゟ。千代田稲荷は旧社地といわれる御岳神社とは位置がちと違うぞ。当時の陸蒸気はメーワク施設だったので、厚木街道からなるべく遠くに作られたのでありましょう。
この頃なら宮益坂に「めし」という看板を出して裏長屋に住んでも、子供を遊ばせるところには困らなかっただろう。馬肉屋もありそうだ。松原村に住んで一里半をチャリで通う、といえば「何でまた?」怪訝な顔をされた事だろう。
運動不足なんで。
と言っても、どこへ行くにも徒歩で日に十里は歩く、という幕藩時代の日本人は首を傾げるだけだ。
桑茶が国策だった頃なので、中渋谷村や駒場の農学校の東には桑畑が拡がっている。豪徳寺や森厳寺東のお宮の廻りには松林があるが、下北沢の辺り、桑畑以外は葡萄の房みたいな「雜樹林」とある。
明治13年式の地図記号で鍼葉樹・闊葉樹以外に見られるものは松竹桧桑茶で、有用樹種以外は雜樹という近代思想だ。松原村の東は東松原ではなく赤堤村だ。
現在の地図はGoogleMapゟ。
by dehoudai
| 2014-08-07 16:18
| まちづくり
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