2014年 03月 06日
田宮模型の仕事 |
田宮俊作
文春文庫 2000
街角の古本屋の店先にあったので、連れ帰ってしまった。我が人生のある時期を振り返る様で、実に面白かった。
解説がリチャード・クーと、これも一流だ。そのリチャードに俊作さんは
株式上場なんかしちゃったら好きなものが作れなくなるでしょう。
とこれまた一流だ。
われわれは、利益目的以外の理由において、たくさんのことを行っている。われわれが出会ったときの世界よりも、さらに良いものになった世界を残したいと考えている。そして、そうした姿勢に反対なのであれば、その人はアップルの株から手を引くべきだろう。
というティム・クックと同じスタンスだ。
あの頃、つまり中学生の頃から結婚して子供が生まれる頃まで、私の人生の何分の一かは模型で埋まっていた。田宮のジャガーEタイプで度肝を抜かれた後で、おもちゃみたいな車のモデルを出して「なぜ田宮が?」と多年の疑問だった経緯も、本書で知ることが出来た。
今だに手元に残してある田宮のプラモデルのひとつが、Lotus30のボディだ。1965年の発売だそうな。スロットレーサーのパーツとして売られたものだが、私はこれに同じくポルシェカレラのトップを乗せては、内部を作り込んで遊んでいた。ハンブロールの「ねろっ」としたエナメルの元は白かったものが今ではたばこの脂でこんな色になっている。
タイレルのシックスホイーラーは高くて手がでなかったので、代わりにスクラッチで1/144のものを作ったことがある。その後だんだんものづくりの面白さは建築設計に吸い取られてしまったが、小僧どもをダシにして遊ぶ、ということでも田宮のプラモデルに手がでることもあった。
作ってみたかった船にリバティ船がある。サンフランシスコで実物を見学し、BlueJacketの1/192の木製モデルを取り寄せ、独立メーカーが出した1/700のキットも買い込んだのだが、残念なことに気力がもう残っていないことに後で気付いた。
大分後に作ってみたのが日本海軍の支援艦艇だ。モデルづくりというより「物語」を物にして見る、という欲求からだ。大岡昇平の「レイテ戦記」を読んでからなので1998年だろう。
田宮商事がある小鹿の辺りはちょっとした職人町になっている。競輪場が出来たのもそうした土地柄だろう。戦時中には三菱が零戦を作ると言って大規模開発をやったのだが、零戦は要らん、ということで現在はエアコンなど作っている様だ。
遡れば御一新の折、江戸から難民が退去して駿遠三へ流れ込んで来たが、その中にはオサムライサンだけでなく、べらんめい社中も大勢いた筈だ。私は「静岡おでん」の源流はその辺りだと思っている。
友人の父は菓子職人だったのだが、競輪場近辺への配達は御法度だったそうだ。売上を使い込んでしまうのだそうだ。
浜松が「ものづくりの街」見たいな顔をしているが、実は静岡も立派な「ものづくりの街」であって、世界企業も沢山ある。むしろ浜松と静岡の違いは御城内にあるのではなかろうか。
唐津藩を放り出した水野忠邦が、奏者番へ上がるために踏んづけて行った通り、浜松御城内は霞ヶ関を向くばかりで、領国など眼に入っていないのだ。何かと言うと助役を霞ヶ関から借りて来たり、2011年震災の折、鈴木康友が自治省の顔色をうかがって、浜松祭を自粛したのなど、良い例だ。
それと対照的に駿府は大御所様の隠居所であり、「ラストタイクーン」徳川慶喜公が蟄居した所なので、御城内も「天下に恥じない」運営がされている様な気がする。「やらまいか」ではなく「やめざあ」というのも、切歯扼腕しつつ武士の本分を守る、というところだろう。
浜松ではどうせ御奉行様はこっちを見ていないからと、頼りにされず、それに応じて御奉行連も「どうせ何をやっても相手にされない。」という居直りが「出世大名家康君」には良く表現されている。
by dehoudai
| 2014-03-06 16:17
| きせつ
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