2014年 02月 08日
ゴミステバ |
そもそも「ゴミ」なるものは人間社会にしかないものだろう。テレビでアフリカの猛獣の画像を見ても、食べ残しは大切な資源として再利用されてだろうと見える。
思い出したのはケータイとインターネットに繋がった、雲南の山奥の村の人々よりも遥か昔、今より5,500年前の三内丸山遺跡だ。2012年4月初めの三内丸山は雪の中で、住居跡は上の図の様だった。まるでサンテグジュペリが観察した「象を飲んだうわばみの図」だ。
三内丸山で感動的なのは現代人が言う所の「ゴミステバ」なのだが、どうもあの時代の人々には「ゴミ」という概念が無かったのではあるまいか。食べられないもの、使えなくなったものをここへ持って来て積んでおくのだ。心臓が動きを止めた自分たちの親も、同じ様にここへ積んでおく。
どうも三内丸山の人々にとって、「命」を含め全てのものは、地球のエコシステムから「借りて」来て、使えなくなったらまたもとに戻す、という暮らしをしていたのではなかろうかと思い付く。人間が使えなくても、大事にしてくれる生き物が居るかもしれないし、時間が経てば形を変えて、再び自然の中に「あるべき」ものとなっていくのだ。
分かりやすいのは「うんこ」。身体から外に出る最後の瞬間までは清浄なものだが、外に出た瞬間、最短時間で自然の中に「あるべき」ものとなるべく、急速な科学変化が始まる。動物のように地面に穴を掘ってそこに入れ、上から土を掛けておくのが賢い処理法だが、鈍感な人間は庭に穴を掘るのが面倒なので、家の中で瓶に出したりするから「不浄」となる。
17世紀にはこれを瓶の中で熟成させ、肥料に使うという画期的な農業技術が導入されたが、それさえも鈍感な現代人は嫌がるようになってしまった。
街から「食べ物」を買って来ると、食べ物を作った労力よりも、それを運んで、包装する方に大きなエネルギーが割かれているように思われる。そんな訳で当家から出る「ゴミ」の殆どはプラスチックなのだ。
我国の産業廃棄物の2/3が建築廃材だということで、日本人がいかに貧困な建築生活・住生活を送っているかがうかがい知れる。
都知事選挙の最中に「核廃棄物」についてのニュースが流れた。「夢の核燃料サイクル」と称して、これまで巨額の税金を投入して来た高速増殖炉に終止符が打たれた様だ。この国には「文殊の知恵」がなく、核廃棄物の最終処分法は核戦争しか有り得ない、ということに決した様だ。
昨日2時に日本経済新聞が
と報ずると、これを何とか糊塗しようと
12時17分には
「もんじゅ含め議論・決定」と官房長官が談話、
20時56分には産經新聞が
と、都知事選をオリンピックで塗りつぶしたい連中の、慌てぶりが目に見える様だ。「公正な報道」ではなく、「読んだ人が勝手に思い違いをしてくれる見出し」の工夫に満ちている。
140226
共同通信が上図の様なネタを配信しのだが、紙面に出したのは中日・沖タイ・琉新・道新と言った地方紙で、全国紙は今頃どう扱うか考え中なのだろう。
これを掘り下げて行くと
・原子力発電は「安い」からではなく「核兵器の原料を手に入れるためのもの」。
・現在のところ核廃棄物の最終処分法は核戦争しかない。
という核心に繋がってしまうからだ。このところの北海道はJR・TPP・大間原発と言ったイッシューで「植民地の怒り」が上昇しつつあるのだ。
by dehoudai
| 2014-02-08 12:48
| きせつ
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