2013年 12月 20日
赤毛のアン |
赤毛のアン
村岡花子
新潮文庫 昭和29年-
隠居屋の子で、姉達と一緒に暮らしたことが無かったので、中学時代・色気付いてから、女性というものがさっぱり理解が出来なかった。
その頃「女を知るための参考書」として、大いに役立ったのが本書であった。「良き妻」を得るのにも本書が役立っている。有難いことだ。
今更ながら読み返してみると、女性の目を通した様々な事柄も含まれている。”yesterday”というのはビートルズの唄にもあるが、ここにも別の形の”yesterday”が”tomorrow”と並べられている。
「さようなら。有難うございました」
エリザベスは丁寧にお礼を述べた。
「この『明日』はとてもいいところですわ」
「明日?」
「これが『明日』なのよ。あたし前から『明日』にはいりたかったのだけれど、今、はいっているの」
「ああ、分りました。そう、私は残念ながらあまり『明日』は所望でありませんね。私のほうは『昨日』に戻りたいと思いますよ」
小さなエリザベスはその人が気の毒になった。でも、どうしてこの人は不幸なのかしら?『明日』に住んでいる者が不幸な筈があるのだろうか?
・・・
「エリザベスちゃん、この方はあなたのお父さまなのよ」
「お父さんはフランスよ。あたしフランスにいるの?」
フランスにいるとしてもエリザベスは驚くつもりはなかった。これは『明日』ではないの?それに、いろいろな物がまだ少しばかりぐらぐらしていた。
「お父さんはここにいるのだよ、いい子や」
お父さんは非常に優い声をしていた。その声を聞いただけでも好きになるほどだった。彼は身を屈めてエリザベスにキスした。
「お父さんはお前を迎えに来たのだ。二人とももう決して離れ離れにならないのだよ」
翻訳文学というのは、最初に読んだものが日本語原文になってしまうので、最近の訳ではダメで、村岡花子訳でないとしっくりこない。昭和30年前後の日本語だ。インターネットの今日に較べると「外国」というものが遠く、紙筒を通して向うを覗いている様な、一種の視野狭窄みたいなものがある。キリスト教が人々に手放しで「良いもの」と受け入れられた時代でもある。
カナダの英語と米国の英語というのも違いがあるのだろう。ニール・ヤング君が"Born In Ontario"など解説的に演ってくれると解る様な氣もするのだが、さて、どこが違うかと言うと、イーストエンドの「ロンドン弁」程には違いが解らない。
原作は19世紀末を描いた1936年頃の英語だ。100円で原文をダウンロードして、読んでみよう。
"Good-by and thank you," she said politely. "It is very nice here in Tomorrow."
"Tomorrow?"
"This is Tomorrow," explained Elizabeth. "I've always wanted to get into Tomorrow and now I have."
"Oh, I see. Well, I'm sorry to say I don't care much about Tomorrow. I would like to get back into Yesterday."
Little Elizabeth was sorry for him. But how could he be unhappy? How could any one living in Tomorrow be unhappy?”
"Elizabeth darling, this is your father."
"Father is in France. Am I in France, too?"
Elizabeth would not have been surprised at it. Wasn't this Tomorrow? Besides, things were still a bit wobbly.
"Father is very much here, my sweet."
He had such a delightful voice . . . you loved him for his voice. He bent and kissed her. "I've come for you. We'll never be separated anymore."
外国語は興味のあることについて読む・聞くのが一番良い。東北の被災地でも様々な人が様々な「明日」と「昨日」について思いを巡らしているだろう。
赤毛のアン
by dehoudai
| 2013-12-20 14:18
| ほん
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