
T君のレポートで半僧坊御開帳と知り、出かけて来た。五百羅漢は高校時代に合宿したおりと変わらない。

半僧坊大権現の軒先に紅葉が奇麗で、例により紅葉狩りかたがたの老男女・若男女が辺りを散策していた。ウィークデイなので壮年男女はあまり居なかった。
深奥山方広寺の開山無文元選禅師は、後醍醐天皇の皇子で南朝崩壊後17歳で出家、入唐後当山を開くとある。南北朝当時の国情がヤンナッチャッタのだろう。
開山入唐は明の永楽帝が、色目人の鄭和に命じて史上空前の海上万博である「西洋取宝船」を紅海・ペルシャ湾・アフリカ沿岸に差し向けたよりも50年程前だ。
福建省泉州にはイスラム教のモスクもある。越南國西貢市は元々潮州人の街だったそうだが、印度の寺もある。ミトの湊まで下がると、インド洋風の船も見られ、色目人が海の民だったことがうかがわれる。
モルディブの鰹寄りもん拾い
臺湾國基隆漁港の橋のたもとには小祠が有る。関帝様やら馬祖様やらみたいな、中国風の神様の並ぶ祭壇の前、御焼香台の裏側ではペルシャ風の狛犬が、祭壇を守っていた。
無文元選禅師の船旅をお守りした半僧坊大権現も、基隆漁港にペルシャ風の狛犬をもたらした様な、海の色目人だったかもしれない。
南北朝時代には、そうした外国の知識を持った人が重用されたであろう。大権現様が仏法に帰依されたのも、有難いことだ。
御開帳の半僧坊御神像は一尺程の真っ黒なもので、御顔付など良く解らない。大方昔も良く解らなかっただろう。「鼻が高い」ということから想像を巡らして、天狗の鼻をくっつけたものもあるだろう。
しかし御開帳紀念に御神像の写しが頒けられていて、こちらのお顔を拝見すると、大権現様は鄭和と同じ色目人では無いかと思われる。堂前の縁起を読んでもそのようだ。県知事にはあの頃の、あちら方面の著書もあるので、何らかのサジェッションが有ったのかもしれない。半僧坊大権現正平五年(1350)年中国天台山での修行を終えられた開山さまは、正法の禅を伝えるために明州を船出、帰国の途につかれましたが途中、東支那海に大暴風雨がおこり、ご乗船はいまにも難破しそうになりました。
このとき、眼光炳々たる一偉人が船首に出現し「われ、この船を守り、禅師を護り奉って必ず故国にお届けつかまつらん」といって船師を指揮し、無事に博多の港にお着けしました。
後に開山さまが、この方広寺を創かれたとき、また先の偉人か現われ「お弟子にして頂きたい」と懇願、開山さまから
「汝はそのままで半ば僧である。あえて剃髪するに及ばず」
とのお許しを得て開山さまに仕え末永く当山の鎮守として方広寺を守護されておりますそれが半僧坊大権現であります。
半僧さまのご神徳はあらたかで厄難消滅・海上安全・交通安全・火災消除・その他雲駿を得る者多く全国に数十万の”半僧坊信者”がおります。
「偉人」とあるのは「異人」を敬って言ったものだろう。鄭和の「西洋取宝船」が訪れた辺りの津々浦々で、今ではYAMAHAとSUZUKIが火花を散らしている様だ。