2013年 03月 14日
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ローマ法王が人口割りで南米からとなり、「自分で食事を作る」男に変わったのとはちと違う。
1890年国会開設の年には、饗庭篁村翁が東京朝日新聞の連載で次の様に嘆じている。
東京へ出てなまじひに學問をせば滑智狡才賄賂を取るにあらねば其の周旋人を煽てる公事師とならずば小股をすくふ才取。我家を遊樓にして時めく人を取込む紳士か左らずば長官の御手の付し引物を頂く屬官とならん名節を汚し面目を泥にし只其類の小人に富貴を羨まるゝに止まるべし「木曾道中記」
饗庭篁村
東京朝日新聞
明治23年5月3日-7月3日
吾人は目下本書を青空文庫へ公開すべく、文選工となりてルビを入れているところである。
「遊樓」に「おやまあ」とルビを振ってあるので、ルビにもスゲーもんがあったもんだ、と関心していたら、「おやまや」の見間違いであった。しかしこれとて考えてみると余程だ。
先年は成田屋の小僧が「俺は人間国宝だから、何もしないだって国から年俸1億円をくれる。」などとほざいて暴れ回り、世間を騒がせたところだ。成田屋は河鍋暁斎の図でも分かる通り、暴れたら何をするか分からないのは、家の芸だ。
立役でさえこれなのだから、女形となると転んだら何をするか、分かったもんではない。中国のエリートには伝統的な「娘の育て方」が伝わっている様だが、何せ明治の元勲には、吉原辺のお上﨟を落籍せたものが多いので、そっちの方もめちゃくちゃなのだろう。
ポチ君が政権をしくじった際、ご夫人が飲み屋を始めて、毎晩店の酒で飲んだくれている、というニュースが流れたことがあったが、政権に復帰して、こっちも報道管制ではなかろうか。
by dehoudai
| 2013-03-14 13:04
| きせつ
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