2012年 05月 14日
サイゴンの火焔樹 |
サイゴンの火焔樹
牧久
ウェッジ
2009
著者が日本経済新聞社特派員として、タンソンニャット空港に着いたのが1975年3月1日というから「国家の崩壊」を日本に報ずるのが仕事だったという訳だ。
国家崩壊の様子は古今、あまり変わらない。責任者つまり切腹役を残して「偉い人」から逃げ出すのだ。
昭和20年8月の満州国でも同じ様な事態が起きていた。満鮮国境への避難列車を目掛けて、新京驛は大混乱だったのだが、関東軍司令部は新京驛から二つ程南の驛に列車を用意し、軍幹部とその家族だけを第一便に乗せたそうだ。
その言訳が「一般人は秩序正しく行動出来ないので、軍関係者が秩序正しい行動で範を示す。」だったそうだ。そう言う関東軍が絶対防衛権を南満から朝鮮北部の山岳地帯に変更したことは「一般人」には知らされていない。
第二次世界大戦の二倍に当たる爆弾を投下した焦土作戦も功無く、史上初めて米国を戦争で負かしたというヴェトナムの強さはどこにあるかというと、歴史ではないかと思う。旧石器時代からの遺跡も研究され、紅河沿いに文郎国が成立したのは紀元前7世紀だそうだ。
水田稲作文化圏にありながら、中華中原からは辺境であり、秦の侵略にも屈する事無く、長く独立を保って来た。我が「東方海中の蓬莱島」と違い、地続きの土地で独立を守るのは、尋常容易な事ではなかったろう。国王への反逆者による建国から200年、原住民から大日本帝国までを相手にした西部劇で大きくなった米国とは歴史が違うのだ。
大日本帝国が降伏したとき、仏印には9万の兵力が残されていたそうだ。様々な人生があったろうが、日本軍を離れ、1975年までフランス・アメリカを相手に「大東亜戦争」を戦い続けていた人も居るのだそうだ。東亜経済調査局研究所から越南獨立同盟會という人生も興味深い。
武器の影
ベトナムのラストエンペラー
牧久
ウェッジ
2009
著者が日本経済新聞社特派員として、タンソンニャット空港に着いたのが1975年3月1日というから「国家の崩壊」を日本に報ずるのが仕事だったという訳だ。
国家崩壊の様子は古今、あまり変わらない。責任者つまり切腹役を残して「偉い人」から逃げ出すのだ。
昭和20年8月の満州国でも同じ様な事態が起きていた。満鮮国境への避難列車を目掛けて、新京驛は大混乱だったのだが、関東軍司令部は新京驛から二つ程南の驛に列車を用意し、軍幹部とその家族だけを第一便に乗せたそうだ。
その言訳が「一般人は秩序正しく行動出来ないので、軍関係者が秩序正しい行動で範を示す。」だったそうだ。そう言う関東軍が絶対防衛権を南満から朝鮮北部の山岳地帯に変更したことは「一般人」には知らされていない。
第二次世界大戦の二倍に当たる爆弾を投下した焦土作戦も功無く、史上初めて米国を戦争で負かしたというヴェトナムの強さはどこにあるかというと、歴史ではないかと思う。旧石器時代からの遺跡も研究され、紅河沿いに文郎国が成立したのは紀元前7世紀だそうだ。
水田稲作文化圏にありながら、中華中原からは辺境であり、秦の侵略にも屈する事無く、長く独立を保って来た。我が「東方海中の蓬莱島」と違い、地続きの土地で独立を守るのは、尋常容易な事ではなかったろう。国王への反逆者による建国から200年、原住民から大日本帝国までを相手にした西部劇で大きくなった米国とは歴史が違うのだ。
大日本帝国が降伏したとき、仏印には9万の兵力が残されていたそうだ。様々な人生があったろうが、日本軍を離れ、1975年までフランス・アメリカを相手に「大東亜戦争」を戦い続けていた人も居るのだそうだ。東亜経済調査局研究所から越南獨立同盟會という人生も興味深い。
武器の影
ベトナムのラストエンペラー
by dehoudai
| 2012-05-14 11:27
| ほん
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