2010年 10月 29日
風中緋櫻 |
歳のせいで襲撃シーンを見ていたら、目がうるうるしてしまった。
残念ながら土豆網のヴィデオは13巻までしか見ることが出来ず、14巻以降は"This clip has been blocked in your region"となってしまう。近日中公開希望だ。
VCDもあるが、モノがモノだけに全20枚7,624円なのだ。
史実ではこの後、大日本帝国軍隊が霧社を「新兵器の実験場」として、外国の目を盗んで毒瓦斯を使ったり、「味方蕃」を使嗾して「蜂起蕃」の首を狩らせたり、「絶滅収容所」を作ったりと、その後の日本の道を先取りして話は進むはずだ。既に関東大震災で国家中枢部がPTSDに陥っていた日本は、この時代から急速におかしくなって行く。
鄧相揚さんの原作では「花岡兄弟は『忠』か『奸』か」という章立てがされているが、何に対する「忠」であり、何に対する「奸」なのかが、霧社事件の一つのテーマだろう。ヴィデオで印象に残るのは、初子が一郎に珈琲豆を渡すシーン。大正時代の「近代日本」のモダニズムが溢れている。同じモダニズムを私は「幌馬車之歌」にも感じるのだ。
頭目モーナ・ルダオも「内地見学旅行」で「近代日本」を見ており、霧社事件でも、先ず電話線を切断した通り、「モノとしての近代」を理解するのは、それほど困難ではない。そしてそれとは対照的に「コトとしての近代」が当の日本人達にも、「植民地の時代」としてしか、理解されていなかったことが、霧社事件の一番深いところに、流れている。
「戦士の時代」に敬意の払われていた「敵戦士の尊厳」は消え去り、ブードゥーを奉ずる原住民を絶滅させ、家畜としての黒人をもってこれに代えるという、カリブ海で行われたのと同様の、「皆殺しの近代」が到来したのだ。靖国神社の祀る「国事殉難者」には戊辰戦争の「賊軍」は含まれれていない。
伝統的な日本人にとっては神道は「祭天の古俗」だったものが、明治政府の仕組んだ「文明開化・神国日本・富国強兵」の3点セットに酔い痴れて、昭和5年頃には大方の国民には「軍隊に入って近代を実感しよう。」というのが浸透していた。靖国神社の「死んだら神様よ」というのはその為の舞台装置なのだ。
種の絶滅と、それに代わる家畜の繁殖が、地球を覆う近代であって、食べ物の商品化などがその受け皿になっている。19世紀に太平洋の鯨族の多くを、絶滅危惧種に追い込んだものたちの子孫が、数百年来共存共栄の鯨文化を伝えて来た古式捕鯨に因縁を付けるなど、笑止千万であるのである。
モーナ・ルダオは戦士の目を通して、軍国日本の行く末を、直感していたのだろう。首狩りによって「昨日の敵が今日の祖霊に加わる」という生死感を伴わない「モノとしての近代」が、セイダッカにとっての望ましい未来を約束しない、と結論づけたのだ。
我々日本人は「首狩り」という伝統の形にとらわれて、その生死感を理解しようとしないのだが、モーナ・ルダオは
阮文雄
大正モダン
春
風中緋櫻
公共電視オフィシャルサイト風中緋櫻
1895乙未2
1895乙未1
風中緋櫻3
風中緋櫻2
風中緋櫻1
海角7號4
海角7號3
海角7號2
海角7號
残念ながら土豆網のヴィデオは13巻までしか見ることが出来ず、14巻以降は"This clip has been blocked in your region"となってしまう。近日中公開希望だ。
VCDもあるが、モノがモノだけに全20枚7,624円なのだ。
史実ではこの後、大日本帝国軍隊が霧社を「新兵器の実験場」として、外国の目を盗んで毒瓦斯を使ったり、「味方蕃」を使嗾して「蜂起蕃」の首を狩らせたり、「絶滅収容所」を作ったりと、その後の日本の道を先取りして話は進むはずだ。既に関東大震災で国家中枢部がPTSDに陥っていた日本は、この時代から急速におかしくなって行く。
鄧相揚さんの原作では「花岡兄弟は『忠』か『奸』か」という章立てがされているが、何に対する「忠」であり、何に対する「奸」なのかが、霧社事件の一つのテーマだろう。ヴィデオで印象に残るのは、初子が一郎に珈琲豆を渡すシーン。大正時代の「近代日本」のモダニズムが溢れている。同じモダニズムを私は「幌馬車之歌」にも感じるのだ。
頭目モーナ・ルダオも「内地見学旅行」で「近代日本」を見ており、霧社事件でも、先ず電話線を切断した通り、「モノとしての近代」を理解するのは、それほど困難ではない。そしてそれとは対照的に「コトとしての近代」が当の日本人達にも、「植民地の時代」としてしか、理解されていなかったことが、霧社事件の一番深いところに、流れている。
「戦士の時代」に敬意の払われていた「敵戦士の尊厳」は消え去り、ブードゥーを奉ずる原住民を絶滅させ、家畜としての黒人をもってこれに代えるという、カリブ海で行われたのと同様の、「皆殺しの近代」が到来したのだ。靖国神社の祀る「国事殉難者」には戊辰戦争の「賊軍」は含まれれていない。
伝統的な日本人にとっては神道は「祭天の古俗」だったものが、明治政府の仕組んだ「文明開化・神国日本・富国強兵」の3点セットに酔い痴れて、昭和5年頃には大方の国民には「軍隊に入って近代を実感しよう。」というのが浸透していた。靖国神社の「死んだら神様よ」というのはその為の舞台装置なのだ。
種の絶滅と、それに代わる家畜の繁殖が、地球を覆う近代であって、食べ物の商品化などがその受け皿になっている。19世紀に太平洋の鯨族の多くを、絶滅危惧種に追い込んだものたちの子孫が、数百年来共存共栄の鯨文化を伝えて来た古式捕鯨に因縁を付けるなど、笑止千万であるのである。
モーナ・ルダオは戦士の目を通して、軍国日本の行く末を、直感していたのだろう。首狩りによって「昨日の敵が今日の祖霊に加わる」という生死感を伴わない「モノとしての近代」が、セイダッカにとっての望ましい未来を約束しない、と結論づけたのだ。
我々日本人は「首狩り」という伝統の形にとらわれて、その生死感を理解しようとしないのだが、モーナ・ルダオは
西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯してはじめて以来、文明国と呼んでいる。もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。と「茶の本」に記した岡倉天心と、同じところに立っている。
阮文雄
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風中緋櫻2
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海角7號4
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海角7號
by dehoudai
| 2010-10-29 00:00
| むーびー
|
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