2010年 08月 24日
象牙の箸 |
象牙の箸
邱永漢
中央公論 昭和35年
人に勧められて読んでみたのだが、結構面白かった。なにせ50年前の本なので、内容自体が歴史の産物、ということになる。
時は池田内閣が「所得倍増計画」を策定した年、モトネタは関西で発行されていた「あまカラ」という食べ物まわりの小冊子とのこと。瀟洒な装丁に当時一流の執筆陣が名を連ねていたらしい。
邱永漢氏はその中で中国・台湾・日本の食べ物に関するうんちくを傾けているのだが、懸命に書いているわけではない。日本人は「お洒落-物事に執着しない」というのを好ましいものと見るのだが、日本・台湾・中国を一跨ぎにした「元憂国の士」は、「こんなことにうつつをぬかすは男子一生の天命ではない。」とシラけており、そうした売文で糊口をしのぐ悲哀も見え隠れする。それが文壇でもてはやされ、「一流出版社」から瀟洒な装丁で出版されたのだから、本人は「いやはや」と思っていたかもしれないことが、その後の氏の軌跡からは推測される。
ゴウトウ慶太とドロボー康次郎が大立ち回りをした挙げ句、伊豆急線が開通したのが翌年。加山雄三の流行歌をバックに、都内の勤労者がゾロゾロと「下田へ避暑に」出かける様になる少し前だ。昨日の下田行きには台湾からのツアー客が乗り込んできたが、これから大陸の観光客に喜んでもらうには、日本人にとっての当時の贅沢が、ぴったり来るかもしれない。
死にものぐるいで働き、飢えから解放されつつあった日本人には、氏が紙面に紡ぎだす贅沢が、もてはやされたのだろう。しばらく前まで「勝ってカマボコ食べたいなァ、誓ってチクワも食べたいな、手柄テンプラ食べたいな、」とやっていたのが、やっと「ビフテキ」を食べて幸せを感じていたところへ、中国伝統の御馳走を並べたのだから、さぞかし、と思う。生前の母も象牙の箸に執着していたのを思い出した。
1970年に開店した西武デパート浜松店も既に無い。50年後の今日から見れば、ビフテキと満漢全席を手に入れた代わり、当時まだ普通に日本人の食べていた、地元産のごく普通の食材の多くが、今では万金を積んでも手に入らないものになっていることにも愕然とする。
邱永漢
邱永漢
中央公論 昭和35年
人に勧められて読んでみたのだが、結構面白かった。なにせ50年前の本なので、内容自体が歴史の産物、ということになる。
時は池田内閣が「所得倍増計画」を策定した年、モトネタは関西で発行されていた「あまカラ」という食べ物まわりの小冊子とのこと。瀟洒な装丁に当時一流の執筆陣が名を連ねていたらしい。
邱永漢氏はその中で中国・台湾・日本の食べ物に関するうんちくを傾けているのだが、懸命に書いているわけではない。日本人は「お洒落-物事に執着しない」というのを好ましいものと見るのだが、日本・台湾・中国を一跨ぎにした「元憂国の士」は、「こんなことにうつつをぬかすは男子一生の天命ではない。」とシラけており、そうした売文で糊口をしのぐ悲哀も見え隠れする。それが文壇でもてはやされ、「一流出版社」から瀟洒な装丁で出版されたのだから、本人は「いやはや」と思っていたかもしれないことが、その後の氏の軌跡からは推測される。
ゴウトウ慶太とドロボー康次郎が大立ち回りをした挙げ句、伊豆急線が開通したのが翌年。加山雄三の流行歌をバックに、都内の勤労者がゾロゾロと「下田へ避暑に」出かける様になる少し前だ。昨日の下田行きには台湾からのツアー客が乗り込んできたが、これから大陸の観光客に喜んでもらうには、日本人にとっての当時の贅沢が、ぴったり来るかもしれない。
死にものぐるいで働き、飢えから解放されつつあった日本人には、氏が紙面に紡ぎだす贅沢が、もてはやされたのだろう。しばらく前まで「勝ってカマボコ食べたいなァ、誓ってチクワも食べたいな、手柄テンプラ食べたいな、」とやっていたのが、やっと「ビフテキ」を食べて幸せを感じていたところへ、中国伝統の御馳走を並べたのだから、さぞかし、と思う。生前の母も象牙の箸に執着していたのを思い出した。
1970年に開店した西武デパート浜松店も既に無い。50年後の今日から見れば、ビフテキと満漢全席を手に入れた代わり、当時まだ普通に日本人の食べていた、地元産のごく普通の食材の多くが、今では万金を積んでも手に入らないものになっていることにも愕然とする。
邱永漢
by dehoudai
| 2010-08-24 13:04
| ほん
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