2010年 07月 27日
邱永漢 |
少し中国の事を知りたくて、小説本を読んでみた。陳舜臣の推理小説は面白いが、「陳舜臣の中国史」シリーズは難しい。作者の興味の赴くまま、力が入り過ぎで書き飛ばしていた様な感じだ。歴史とはそんなものなのだろう。逆にそこから推理小説を眺めてみると、「娯楽作品」というのがありありと見えて、ちょっと興ざめだ。国境内戦時の世相を書くのも、大所高所から俯瞰している感じ。
邱永漢
短編小説傑作選集
新潮社 1994
というのが図書館にあったので読んでみたら、驚く程違っていた。陳舜臣がNHKの大河ドラマの原作みたいなベストセラーなのに対し、邱永漢は生身の自分を小説にしてしまっている。
手元にあった
邱永漢
密入國者の手記
現代社 昭和31
の帯には、檀一雄が「日本の文学青年が陥るような、私小説の袋小路とか、心理小説の誘惑とか、そういう弱みが一点も無い。」と記しているが、戦後の香港・台湾と日中の間を、傷つきながら生きる、生身の自分をさらけ出しているところは、事実は小説より奇なりであって、「純文学」の先生方からは、評判が宜しくなかったのもうなずける。これは「私小説」ではなくて本物の「私」小説なのだ。戦後日本の知識人に「私」が無かったことも教えてくれる。
そんな事がいつまでも出来るわけは無く、池田勇人の頃には「人間稼いで食って出して死ぬだけ」と命を的にして悟り、「お金儲けの神様」に転身したのだが、ここに納められたそれまでの小説を読むと、戦後の香港・台湾と日中の有様が良く分かる。大所高所から歴史を眺めて、国民を納得させる、NHKの大河ドラマ式ベストセラーではなく、地上1.5m位から眺めた現代史なのだ。満州国で「本省の課長並」だったものが、戦後は「ははは」と暢気に暮らした家尊とは逆コースだ。
長過ぎた戦争
蒋介石が台湾に立てこもってやっていたのは、辛亥革命の主導権争いであって、人民解放軍も革命軍なら、中華民国軍も革命軍なのだ。知識人には思想とか主義とかがあるだろうが、畑の草を取っていて、いきなり兵隊に取られた百姓にしてみれば、革命とは「産の無いものが産の有るものから産を奪う」というのが分かりやすいだろう。
「犬は噛み付くが、泥棒を捕まえる。」という日本軍が敗戦と同時に引き上げた台湾に、「ぼろにわらじで鍋釜を背負った大陸兵」が上陸すると、台湾人の目から見れば「女でも金でも何でも欲しがる乞食の様な連中。」と迷惑した様だ。
しかし大陸兵からすれば「台湾人が亡国の民から抜けられたのは、中華民国のおかげだ。」となるのだが、日本の台湾支配のおこぼれ、お情けで暮らしていた二等国民たる台湾人の生活水準の方が、数百年の官僚支配の腐敗と、列強にによる半植民地支配の、複合汚染に苛まれてきた大陸の百姓の暮らしぶりよりもまだましだった、という点が、その後の台湾人に新たな「ねじれ」をもたらした。
その後の台湾人、特に蒋介石によって目の敵にされた知識階層からの「大陸兵」の観察は散見するのだが、戦争によって故郷から台湾へと拉致された「老兵」からの描写は貴重だ。
象牙の箸
邱永漢
短編小説傑作選集
新潮社 1994
というのが図書館にあったので読んでみたら、驚く程違っていた。陳舜臣がNHKの大河ドラマの原作みたいなベストセラーなのに対し、邱永漢は生身の自分を小説にしてしまっている。
手元にあった
邱永漢
密入國者の手記
現代社 昭和31
の帯には、檀一雄が「日本の文学青年が陥るような、私小説の袋小路とか、心理小説の誘惑とか、そういう弱みが一点も無い。」と記しているが、戦後の香港・台湾と日中の間を、傷つきながら生きる、生身の自分をさらけ出しているところは、事実は小説より奇なりであって、「純文学」の先生方からは、評判が宜しくなかったのもうなずける。これは「私小説」ではなくて本物の「私」小説なのだ。戦後日本の知識人に「私」が無かったことも教えてくれる。
そんな事がいつまでも出来るわけは無く、池田勇人の頃には「人間稼いで食って出して死ぬだけ」と命を的にして悟り、「お金儲けの神様」に転身したのだが、ここに納められたそれまでの小説を読むと、戦後の香港・台湾と日中の有様が良く分かる。大所高所から歴史を眺めて、国民を納得させる、NHKの大河ドラマ式ベストセラーではなく、地上1.5m位から眺めた現代史なのだ。満州国で「本省の課長並」だったものが、戦後は「ははは」と暢気に暮らした家尊とは逆コースだ。
長過ぎた戦争
蒋介石が台湾に立てこもってやっていたのは、辛亥革命の主導権争いであって、人民解放軍も革命軍なら、中華民国軍も革命軍なのだ。知識人には思想とか主義とかがあるだろうが、畑の草を取っていて、いきなり兵隊に取られた百姓にしてみれば、革命とは「産の無いものが産の有るものから産を奪う」というのが分かりやすいだろう。
「犬は噛み付くが、泥棒を捕まえる。」という日本軍が敗戦と同時に引き上げた台湾に、「ぼろにわらじで鍋釜を背負った大陸兵」が上陸すると、台湾人の目から見れば「女でも金でも何でも欲しがる乞食の様な連中。」と迷惑した様だ。
しかし大陸兵からすれば「台湾人が亡国の民から抜けられたのは、中華民国のおかげだ。」となるのだが、日本の台湾支配のおこぼれ、お情けで暮らしていた二等国民たる台湾人の生活水準の方が、数百年の官僚支配の腐敗と、列強にによる半植民地支配の、複合汚染に苛まれてきた大陸の百姓の暮らしぶりよりもまだましだった、という点が、その後の台湾人に新たな「ねじれ」をもたらした。
その後の台湾人、特に蒋介石によって目の敵にされた知識階層からの「大陸兵」の観察は散見するのだが、戦争によって故郷から台湾へと拉致された「老兵」からの描写は貴重だ。
象牙の箸
by dehoudai
| 2010-07-27 17:18
| ほん
|
Comments(6)
Commented
by
kuunuu at 2010-07-27 20:41
そういえば、邱永漢先生の小説を読んだことがありません。私も図書館でさがしてみよう。
0
Commented
by
dehoudai at 2010-07-28 09:50
さらにお薦めなのが
自伝の小説
李昂 1999
藤井省三訳 国書刊行会 2004
です。前作「北港香爐人不挿」で民主進歩党副主席の生き様を描き出し、国家権力との全面激突に至った作者は、謝雪紅の生き様を描き出しています。謝雪紅は5男3女の貧家で三女に生まれ、12歳で親の葬式を出す為に自ら身売り、後モスクワに学んで2.28事件を指導、大陸に逃げた後文革で死亡という人です。
李昂は「夫殺し」以来、一貫して女の生き様を主題にしているようです。昨日、辻元清美氏が社民党離党という報道がありましたが、クリントン米国務長官、ペイリン前アラスカ州知事などは「女傑」という趣がありますね。ドイツのメルケル首相はサッチャー同様「実力派」でしょうか。
自伝の小説
李昂 1999
藤井省三訳 国書刊行会 2004
です。前作「北港香爐人不挿」で民主進歩党副主席の生き様を描き出し、国家権力との全面激突に至った作者は、謝雪紅の生き様を描き出しています。謝雪紅は5男3女の貧家で三女に生まれ、12歳で親の葬式を出す為に自ら身売り、後モスクワに学んで2.28事件を指導、大陸に逃げた後文革で死亡という人です。
李昂は「夫殺し」以来、一貫して女の生き様を主題にしているようです。昨日、辻元清美氏が社民党離党という報道がありましたが、クリントン米国務長官、ペイリン前アラスカ州知事などは「女傑」という趣がありますね。ドイツのメルケル首相はサッチャー同様「実力派」でしょうか。
そういえば台北の中山北路に「Q-永漢書局」なる本屋がありましたですね。
Commented
by
dehoudai at 2010-07-29 20:35
Q永漢氏からの問いは常に「それお金になるの?」でありますね。主義だの思想だのは子供の遊び、ということで。「お金の方が普遍性がアルデショ、」「全くその通り。」
Commented
by
cherubin
at 2010-08-21 07:55
x
「香港」や「濁水渓」なら読みましたが、Q氏の最大傑作は「食は広州にあり」「象牙の箸」二部作でしょう。あの吉田健一に「中華料理のことはQさんに聞けば間違いない」と言わしめたのは大したものです。
Commented
by
dehoudai at 2010-08-21 12:33
cherubinさん、どうもです。読んでみなくっちゃ。
中国の金持ちは、人を招待して一人前100万円の食事を振る舞うかと思えば、次の朝には街頭で100円の麺を食べている、という話も、邱永漢さんの身ごなしに通じるかもしれませんね。
中国の金持ちは、人を招待して一人前100万円の食事を振る舞うかと思えば、次の朝には街頭で100円の麺を食べている、という話も、邱永漢さんの身ごなしに通じるかもしれませんね。