2009年 06月 05日
生き物を食べる |
のれんが下がるのを待って店に入る。適当にビールでも飲みながら、板場を注意。ぽつぽつ客が増えて、「鰹くれ!」と声が係りそうになると板前が鰹をおろしに係る。そこですかさず注文すれば良いのだ。夜も9時過ぎになれば、既に半ば普通の鰹と化しており、深夜を過ぎれば、スーパーで売っている、巻網による大量虐殺の犠牲と同じタダの鰹だ。「夕鰹」とよばれる所以である。
千歳の奥地みたいなオヤジの寄る小料理屋には「もち鰹あります」なんて貼札など、出さない店もありそうだ。そうした店では鰹の刺身と言えば、もち鰹でなければならず、わざわざ店先に貼札を出すなんて恥ずかしいことはしないで、「昨日の鰹は、煮るか捨てるか」だ。田町でレストランを経営するIサンなぞもその口で、表看板にはエスニック料理と出しているくせに、不良中年がカウンタに座ると、「鰹あります。」と来る仕掛けになっている。
もち鰹の味と言うのは、あれは「生ま物」ではなくて、「生き物」の味ではなかろうか。次の日には既に「死に物」となっている訳で、そのままでは食べられないのだ。鰹の魂が昇天して、水から引揚げられてから、身が死ぬまでに4-5時間掛かる、その間に食ってしまおう、というのがもち鰹の正体であろう。人間は他の生物の命を食べている、というのを実感させてくれるのがもち鰹だ。
「殺生」したもを食うのだから、謡曲「鵜飼」に倣えば、「罪の報いも後の世も。忘れ果てて舌鼓を打てば」地獄に堕ちて魔道に沈む群類になり果てて、浮みがたき罰を受ける危険性と裏表なのだ。我々東アジアの仏教徒が、そうした原罪意識を持っているのと対照的に、西洋三教の信徒にとっては、万物は「創造主」なるものが作りたもうたものであるから、魚だろうが、四つ足だろうが、「創造主」が食って良しとすれば、殺生も平気で行えるのだ。なんと野蛮なことではある。
これまでの記事
090612 塩辛
090605 生き物を食べる
090526 お買得品
090525 本日のおすすめ
090521 冷蔵庫?
090520 鰹はどう死にたいか
090511 鰹の不思議
090510 10日の鰹
090506 本日の舞阪港
090422 目に青葉
090407 塩辛茶漬
090330 魚政のおやじ
090209 節分の鰹
081022 もどり鰹
081003 もどり鰹
080909 巻網の鰹
080908 鰹の塩辛
080903 鰹は片身
080814 もち鰹08
080507 六日の鰹
080418 もち鰹ではあるが
070918 今年の鰹
070727 ごんじい
070507 私のレシピ
070507 塩辛の道2
070503 塩辛の道
050703 鰹の季節
040805 異常気象
030615 塩蔵醗酵食
020623 今年の鰹
010924 もち鰹あります
by dehoudai
| 2009-06-05 23:36
| たべもの
|
Comments(0)