2009年 04月 10日
米国の裏庭にて |
マッカーサーの「犯罪」
西鋭夫
日本工業新聞社/1983
終戦後マッカーサー元帥が、どのように日本を料理したかを、概観する。権力とか、国家とかいうものは60年経っても「相変わらず」であるようだ。
民主主義対共産主義、実はアメリカ人対ロシア人、という土俵で進められた戦後日本の「主権在民」なんだが、その民主主義の尊厳は人間に由来しているかに見えるものの、「神こそ全ての尊厳の源泉である。」というわけで、農奴経済から離陸し、産業近代化のために、共産主義をお題目としたロシア人が、ロシア正教に先祖帰りしてしまうのと五十歩百歩で、白人の身勝手だ。
その昔、水田稲作が入って来た頃の日本列島では、国家規模での大規模水田開発があれば、飛躍的な生産性向上が可能となった。「葦原千五百秋瑞穂国当天壌無窮」の上に幸せな暮らしを築くためには、権力とか、国家とかが必要になってしまったのだ。
牧草地さえ有れば、人間が昼寝をしていても、羊が草を食って太る、というキリスト教の産業基盤は、やがて世界中を植民地にする、という経過を辿るのだが、日本文明の精華はそれとは違うのだね。天皇がもう若くはないのに、毎歳田んぼへ入って腰を屈めて田植えをするのは、額に汗した者が幸せになれる、ということを象徴しているのであって、西欧文明の如く、土地を持っていれば幸せになれる、というのとは違うのだ。相も変わらず植民地時代のノリで、北極海底へ潜水艦で国旗を立てに行く人々には解るまい。
それにも関わらず、五十歩百歩となってしまうのは、明治初年に岩倉具視などが、大日本帝国の国体を定めるにあたって、18世紀西欧の絶対王権と、産業近代化と、国民軍と、土地制度をごった煮にしてから、というよりは、権力とか、国家とかの本質だろう。民主主義対共産主義なんてお題目も、後の人はどう見るやら。
西鋭夫
日本工業新聞社/1983
終戦後マッカーサー元帥が、どのように日本を料理したかを、概観する。権力とか、国家とかいうものは60年経っても「相変わらず」であるようだ。
民主主義対共産主義、実はアメリカ人対ロシア人、という土俵で進められた戦後日本の「主権在民」なんだが、その民主主義の尊厳は人間に由来しているかに見えるものの、「神こそ全ての尊厳の源泉である。」というわけで、農奴経済から離陸し、産業近代化のために、共産主義をお題目としたロシア人が、ロシア正教に先祖帰りしてしまうのと五十歩百歩で、白人の身勝手だ。
その昔、水田稲作が入って来た頃の日本列島では、国家規模での大規模水田開発があれば、飛躍的な生産性向上が可能となった。「葦原千五百秋瑞穂国当天壌無窮」の上に幸せな暮らしを築くためには、権力とか、国家とかが必要になってしまったのだ。
牧草地さえ有れば、人間が昼寝をしていても、羊が草を食って太る、というキリスト教の産業基盤は、やがて世界中を植民地にする、という経過を辿るのだが、日本文明の精華はそれとは違うのだね。天皇がもう若くはないのに、毎歳田んぼへ入って腰を屈めて田植えをするのは、額に汗した者が幸せになれる、ということを象徴しているのであって、西欧文明の如く、土地を持っていれば幸せになれる、というのとは違うのだ。相も変わらず植民地時代のノリで、北極海底へ潜水艦で国旗を立てに行く人々には解るまい。
それにも関わらず、五十歩百歩となってしまうのは、明治初年に岩倉具視などが、大日本帝国の国体を定めるにあたって、18世紀西欧の絶対王権と、産業近代化と、国民軍と、土地制度をごった煮にしてから、というよりは、権力とか、国家とかの本質だろう。民主主義対共産主義なんてお題目も、後の人はどう見るやら。
by dehoudai
| 2009-04-10 15:53
| ほん
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