2008年 09月 06日
法をまもる |
天皇陛下が下さった明治憲法下では、臣民は「法に従う」ことで幸せな国民生活を送れるのですが、主権在民の日本国憲法のもとでは、第一義に「法に従う」のは国民から権力を付託された公務員である、というのが五十嵐敬喜センセイの説です。
では現在の日本国では国民が「法をまもる」というのはどういうことかというと、自分の幸福を実現するために「法を衛る」と言うことになりそうです。「証券取引法なんてザル法だから、こうすればいいじゃん。」ということでホリエモンが私腹を肥やしたり、法律を作っている役人が「村上ファンド」などと称して法を悪用するなど、他人役人は当てにならないので、国民が自分で「法を衛」らなければならないのが、近代国家ということでしょか。
ところが国会は「法を衛」ってくれるかというと、先ずは議席確保ということで、エネルギーを消費してしまう様です。で、法律の条文の大筋を決めたところでエネルギーを使い果たし、「あとは良きに計らえ。」というわけで、細かなところは省令に委ねることが広く行われます。役人の作った省令が法律の代わり、というわけです。ところがここでも省令は「国民を衛る」道具、というより「省令に従え」ば国民は幸せになれる、という明治憲法下のセンスからなかなか抜けきれません。
まちづくりなど全国同じ法律では地域の実情にあわない、ということで地区計画制度が取入れられて来ましたが、ここでも「条例に従う」のか、「条例を衛る」のか、という問いが繰り返されます。
地方公務員は「条例を衛る」のが仕事のはずなのですが、中央から降りて来た「省令に従う」ことで成り立っていた仕事の進め方に、頭が慣れてしまって、なかなか「条例をうまく使って市民生活を衛る」という頭の切り替えが出来ないでいる様です。
by dehoudai
| 2008-09-06 13:28
| まちづくり
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