2008年 09月 03日
鰹は片身 |
9月とともに手製の鰹の塩辛も食べ尽くしてしまった。舞阪町魚政商店に行くと、じー様は「塩辛はねーよ。」と取りつく島も無い。客に喧嘩を売るのが昔式の魚屋だ。頃合いを見てまた覗いてみよう。
明治の頃の日本人が鰹をどのように食べていたかの、手掛かりが
旧聞日本橋
長谷川時雨
岩波文庫1983
に載っていたなと、探してみた。日本橋松島町一帯の大家さんであった森口喜造氏について、原文次の通り
テンコツさんことた森口喜造氏はそこら一帯の大家さんで、口利きで、対談事、訴訟にもおくれをとらぬ人、故松助演じるところの「梅雨小袖」の白木屋お駒の髪結新三をとっちめる大家さん、鰹は片身もらってゆくよの型で、もちっとゴツクした、ガッチリした才槌頭である。
幕末明治の江戸東京を述べた蘊蓄本の筆頭には八田挿雲の「江戸から東京」が揚げられるが、あちらは金沢藩出身の新聞記者、こちらは日本橋通油町生れの御直参旗本の娘。あちらが江戸時代は愚か、金龍山の寸八秘仏が海から上がった天平時代まで、遠目が聞くのに対し、こちらは明治12年油町に生を受けて以来、日本橋の路地裏の地上三尺から五尺の目で当時の世相を活写している。小林清親が米沢町から逃げ出し、久松町に陣取って必死で描いた明治14年の両国大火も「いったん寝たのを夜半に起こされて、、」と記憶している世代なのだ。
ところが悲しいかな我々は、百年ちょっと前の世相、というものがモウ解らない。上掲の鰹にしても、人物を形容するのに、当時の人に通じる言い方を並べているのだが、新三をとっちめる大家さんが松助でなければならないのが私には解らない。最後に決まり文句として「鰹」を置いたのだが、「鰹は半分もらってゆくよ」と来たときの観衆の反応が解らない。
世人が鮪を珍重する様になったのは昭和も戦後のことであって、明治の人にとっては「昨日は相模灘の鮪を食った」など恥ずかしくて人には言えないことだった、までは解るが「鰹は片身もらってゆくよ」の決め方がどうもピンとこない。時雨の文章は「ピンとくる」ことで体を成しているのでじれったい。
どんぶり勘定で行くと「目から鼻へ抜ける人」であろうとは思うのだが、時雨の文章はもっと細やかな明治の日本橋界隈の情緒を味わうものなのであって、「型」と言う言葉もそのように使われている。どんぶり勘定は「まあ、田舎の人はそうしておきなさい。」で片付けられてしまうであろう。鰹も小僧をデッキから振り落としつつ金華山沖の上り鰹を一網打尽にする、と言う近海鰹巻き網漁船など無い頃のことで、現在とは比較にならない値段だったには違いない。
Coredoと変わり果てた白木屋の路地に「食傷新道」という看板こそ残っているものの、印度人がカレーを商っていたりする昨今である。先年文学賞を受けた「吉原手引草」など、歌舞伎の座付き作者の様な人が書いただけあって、今の日本人でも「ピンとくる」吉原を書けば売れる、というところを押さえている。このでんで行くとそのうち「日本橋手引草」なども出るかもしれない。
雲
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by dehoudai
| 2008-09-03 13:47
| ほん
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