2019年 02月 10日
妙立寺 |
先日無理な姿勢で作業を続けたら、腰が痛くなってしまった。本日虚空蔵さんなのだが、とっさに体を突っ張る可能性がある車の運転は、控えた方が良い。公共交通機関で出かければ、本が読める、というわけで出発。
豊橋市役所前に鬼が出るというので、豊橋公会堂を見物するのも良いかと思ったが、姿勢を正して歩くうちに、豊橋駅から歩くのも大変だと、目的地を変更。
ほんとうの法華経
橋爪大三郎
植木雅俊
ちくま新書 2015
をポケットに入れたのは、お経の本を読めば、姿勢が良くなるだろうと思ったからだ。
その昔雄踏銀座商店街というのがあったそうだが、志都呂のAEONで息の根を止められてしまったようだ。あるいはすでに息の根は止まっていて、地元の衆は
便利になった。
潮見坂から太平洋を眺める家康の東海道は気宇壮大だが、二川から岡崎の坂を降りて新所に至る道は、古墳時代からの物流ルートだったのではないかと思う。東海道鉄道がここを通ったのは、それなりの合理性もあったのだろう。
尋ね尋ねて
ああ、古見のお寺だね、そんなら次の角を曲がってまっすぐだよ。
妙立寺は古見じゃなくて吉美だに。
と言われて山沿いに北へ向かう。山道を迷い、最後は民家の「自家用峠道」みたいなところを越すと、妙立寺の裏門だった。 見当が狂ったのは大方寺というのは南入北拝か東入西拝かと思っていたら、妙立寺は西入南拝だったからだ。
浜松の寺に北拝西拝が多いのは地形のせいもあるのかもしれない。釈尊が法華経を説き始めた時、眉間から光が東を指したのは、東に意味があるのではなく、当時のインドでそちらに仏国土が広がっていたからだそうな。こちらには日蓮宗とある。 本堂から浜名湖を見晴らす仕掛けかもしれない。飯田には元善光寺というのもあったな。
あるいは幕藩時代に参勤交代に苦しめられた西国の人々が、これからは五十三次にはぺんぺん草が生えるも良し、と考えていたかもしれない。
幸い浜松人は昔からお上を頼りにしない。政府が「桑茶」と言う間に木綿の反物を背負って湾鮮満から南洋に出かけ、その時の縁が今では自動車やロボットになっている。工場立地の盛んな新所原も、元はと言えば御直参の旗本が苦労したところだ。
元気だった頃の浜松を超えていこう。
by dehoudai
| 2019-02-10 19:02
| はまなこ
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