2019年 02月 08日
浜ホール |
都田に大きめの箱を作るそうだ。最新式ということで結構なことだという意見がある反面、そんなことをするより年貢を下げて欲しい、という意見もあるだろう。「浜松は音楽の街」というのなら、Jasracと音楽教室の裁判の原告側に参加して、勝訴までの著作権使用料は浜松市が肩代わりする、とすれば拍手も起きよう。Jasracの音楽著作権管理がちゃらんぽらんなことは、高田渡の「ゼニがなけりゃ」の作曲が「高田渡」となっていることでもよくわかる。
吾人が訴えたいのは土地柄だ。浜松で無料のスタジオとしては長年「浜ホール」が親しまれてきた。昭和20年6月18日に空襲で焼失した諏訪神社跡地に建てられた浜松市民会館であり、隣地には中村與資平設計の浜松公会堂があった。
私が先輩から伺ったところでは、解体の際に車寄せの柱を倒そうとして、重機で引っ張っても壊れない。おかしいなとよく調べたら、芯まで鋳物でできていて、空洞がなかったそうだ。 向かいの利町公園には市役所があり、戦前のシビックセンターだった。昭和10年には特別高等警察の発足と同時に浜松警察署が出来、物見台から市民を見張ることができるようになった。
そうした大日本精神病の時代に抵抗するかのように、中村與資平は向かいの手形交換所をスパニッシュ・コロニアルスタイルで設計している。 スパニッシュと言ってもスペイン風ではなく、南カリフォルニア風が手本だ。そうした土地柄が市民に広く共有されるには何十年かの時間がかかり、
そうした大日本精神病の時代に抵抗するかのように、中村與資平は向かいの手形交換所をスパニッシュ・コロニアルスタイルで設計している。
浜松市教育文化会館は、平成27年3月31日をもって休館となりました。
浜松復興記念館は、平成27年3月31日をもって管理運営が終了いたしました。
と言って済むものではない。こうしたやり方は行政に対する市民の信頼を失わせるだけだろう。「夜の練りには提灯とワッペンが必要です。」という、他所の人には意味不明でも、市民には良く分かることが行き渡るには何十年かが掛かっている。
浜ホールが親しまれてきた理由の一つは駅から歩いて行けることではないだろうか。我々の子供の頃まで、「お彼岸」のことを「お鴨江」と呼んでいたのも、自家用車がない時代、駅から鴨江寺まで切れ目なく出店が並んでいたからだ。「浜ホール」ならば中学生高校生が駅から歩いて行けた。
自家用車の時代になり、子供がスタジオに行くのも、
ちょっと送って行ってよ。
という時代だろう。都田に箱を作るのも浜松インター・浜北インター・環状線を交通手段と考えてのことだろう。であればそうした浜松市全体の交通の未来像を、市民にとってわかりやすいものにすることが先ではなかろうか。親が働いていて、ちょっと送ってもらえないのは切なかろう。
それよりも私が心配するのは浜ホール南西角の石垣で、すでに崩壊が始まっていて危険な状態にあることだ。 諏訪神社は中嶋町にあったものを三代将軍の時に五社神社とともにここに勧請したものだが、昭和20年6月18日の空襲で焼失し、復興にあたっては五社神社と合祀されてしまった。石垣も三代将軍の頃のものなので、天下普請の立派なものだが、これでは申し訳がなかろう。 春先らしく1日ごとに小雨が降り、雨が上がると西風が吹く。遠州浜松は風の町なので、風が吹くと言っても、公園の松の小枝が折れることもある。これは数日前の西風の残した枝。
by dehoudai
| 2019-02-08 09:59
| まちづくり
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