2018年 01月 08日
日本坂 |
日本坂を歩いて超えてみようと思い立ちました。大佛次郎の「薩摩飛脚」という小説で、悪者が出てくるのは峠、ということになっています。
家康公の東海道五十三次では丸子ー岡部の宇津ノ谷が東海道の峠ですが、更に古く奈良時代の東海道は日本坂が駅路、宇津谷が伝路となっていて、軍隊が通るのは日本坂だったかもしれない、という説を東名高速の企画をした武部健一先生が唱えています。
箱根山という童謡に
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
とありますが、人馬であれば天下の駅路にも幅六尺ぐらいのところがあったかもしれません。武部健一先生は地政学的な見地から東名高速を日本坂とし、ここに長大トンネルを定めました。これを実地に踏み越えてみれば、何か感じるところがあるかもしれないと思った次第。
奈良時代の東海道がここを通ったかもしれないのは、牧之原を下った東海道初倉駅から焼津までは「志太の浦」と呼ばれた大井川の氾濫原で、氾濫のたびに大井川の流路が変わり、初倉駅から小川駅までは船でしか渡れなかった、という事情もあるようです。そして小川駅北東にも高草山がそびえ、これは大変だから駿河までこのまま船で行こう、ということも行われたようです。
今川さんだの武田さんだの北条さんだのによる、この辺りでの切り取り競争が終わったときには、本来伝路であった志太平野の、西北を走る山裾の道が天下泰平の時代の東海道としては便利だ、というのが家康君の地政学だったのでしょう。
井伊直政がこの道に詰めているうち、お世話をしていた岡部宿の娘に子が出来たという頃が、日本坂を以て東海道としていた最後ではないでしょうか。用宗駅の裏に城山があり、ここで討死した向井正重の子正綱は後に、本多作左衛門配下の船手頭となっているそうで、浜松市元浜町にあった御船蔵などを管理したのでしょう。
by dehoudai
| 2018-01-08 19:02
| まちづくり
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