2017年 10月 14日
御用邸 |
沼津の街をおさんぽしようと思ったら、突然の雨、それも30mm/hという感じで、とてもお散歩ではなくなってしまいました。
土砂降りの中、小学生が魚市場を見学しているので、聞くと「原小学校」だと言います。
原町なら、白隠禅師が味噌屋の小僧だったところだな?
と聞くとキョトンとしています。後で観光バスを見ると、横浜にも原小学校というのがあるようなのです。道路の水溜りが深さ7-8cmになっていて、靴の中に水が入ってしまいました。
車に戻り、思いついて御用邸に向かいました。夏になると国道136号線我入洞でグリッドロックとなり、松原は眺めていたのですが、一度は見ておくのも良いと思ったのです。下関春帆楼には日清戦争講話の間、というのが再現されていますが、あんな中国人観光客に喧嘩を売るような見せ方は如何なものかと思います。袋井可睡斎の「活人剣」も似たような趣味です。
御用邸は明治38年というから、日露戦争の翌年です。海辺の別荘ということで冬の間、東京より暖かい場所に建てられたそうです。ガラス窓というのが当時の最新式だったことがうかがわれます。 江戸時代、元旦に諸国の大名が将軍に参賀の時、二万石以上は旅を許されましたが、二万五9以下は国持大名であっても、素足に草履で雪を蹴立てて登城したといいますから、障子の外は素通しか雨戸だったでしょう。それに比べればガラス戸は文明開化ですが、現代人にすればとても寒さに耐えられるものではないでしょう。
安芸の宮島には帝国海軍の根拠地を作りましたが、徳川海軍の正体は伊豆の海族衆なので、ここも押さえておかねば、という深慮遠謀があったやもしません。明治の初めには「君沢型」という西洋式帆船が一世を風靡した通り、伊豆は船の国です。遠くは「軽野」という巨船を建造して宮中に献上し、海に浮かべなくなってからも、長く水槽として使われたそうです。
昭仁さんは子供が小さかった頃、浜名湖の平野別荘に行幸があったようですが、平野別荘はともかく、今では浜名湖の水質の方がハテナなのであります。
海族衆の女頭目の話は陳舜臣さんが
桃源遥かなり
陳舜臣全集第二十三巻
でもスケッチしています。
御用邸の近くには山本五十六元帥の別荘があり、元帥のそば近くお世話をしていた婦人が小料理屋をやっていたそうです。
と思って神棚を見ると、マルセイバタサンドが。これも君沢型華やかなりし頃、松崎で盛んになった養蚕で成功した依田さんという家が、東海道鉄道開通で没落し、一念発起した依田勉三さんが「必ず成功する」と誓って「成功社」という屋号で、艱難辛苦の末に十勝平野の開拓にこぎつけた記念の品なのですね。依田勉三さんの銅像を建てた発起人が中島みゆきさんのおじいさんだそうで、ここはひとつ松崎の道の駅でマルセイバタサンドを売ってもらい、中島みゆきさんに客寄せのイベントをやってもらうのが良いと思います。
by dehoudai
| 2017-10-14 12:58
| まちづくり
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