2017年 10月 10日
朝日 |
昨日午前6時に浜松城から東を眺めたらいやにくっきりした雲が浮かんでいた。
昨日は旧暦8月20日。夏に比べると大分お天道様が南に寄ってきた。双十節だったが、「國歌唱法大不同 !馬英九、吳敦義大聲唱 賴清德、柯文哲微開口」それまでは午の刻を挟んで日の出から午まで3ツ、午から日の入りまでを3ツに割って時を刻んでいたので、夏と冬は四割方長さが違うのだ。それが明治の6年に時間は夏冬同じ、ということにして相当な混乱があったのではないだろうか。小林清親は明治13年から明治14年にかけて、出版された風景画に、季節と時刻を記入している。 従箱根山中冨嶽眺望
昨日は旧暦8月20日。夏に比べると大分お天道様が南に寄ってきた。双十節だったが、「國歌唱法大不同 !馬英九、吳敦義大聲唱 賴清德、柯文哲微開口」それまでは午の刻を挟んで日の出から午まで3ツ、午から日の入りまでを3ツに割って時を刻んでいたので、夏と冬は四割方長さが違うのだ。それが明治の6年に時間は夏冬同じ、ということにして相当な混乱があったのではないだろうか。小林清親は明治13年から明治14年にかけて、出版された風景画に、季節と時刻を記入している。
明治十三年
薩た富士
明治十四年
箱根山峠甘酒屋
明治十四年
箱根三枚橋雨
明治十四年
七月上旬四時冩
ええーっ、夜明けが明け六つで日暮れが暮れ六つじゃねーって事は一体何だか?
と首を傾げる人々が思い浮かぶ。
何もこれは日本だけではなく、近代的な「時計なるもの」が平民に普及するまで、世界の人々は「日の出から日の入りまで」みたいな暮らしをしてきたのではあるまいか。先年産業革命発祥の地に行ったら、工業団地発祥の地みたいなところが汽車の窓から見え、その頃の工場に「この時計に従って働きなさい。」と言わんばかりの大きな時計が掛かっているのを見た。
その足で予約がしてなかったのでどころも満員という田舎町に着き、最後に「黒牛亭」なる宿屋へ転げこみ、体を温めた頃、向かいの寺から「ゴーン、ゴーン、、、、」と湿った鐘の音が六つ聞こえてきたら2000年11月25日21時だった。日本では丑三つ時というが、さすがに"Kwaidan"の本場の冬21時は既にお化けが出てもおかしくない。
The curfew tolls the knell of parting day,
The lowing herd wind slowly o'er the lea,
The plowman homeward plods his weary way,
And leaves the world to darkness and to me.
のcurfewってやつだが、あれは夏冬今風の21時なのだろうか?ミヒャエル・エンデの「モモ」では、そのあたりを「時間泥棒」という言葉でくくっている。
午前6時前後の浜松城は高齢者の溜まり場だ。現在の天守閣は昭和33年に作ったもので、それまでは昭和25年に開かれた「こども博覧会」で猿ヶ島の横から出たケーブルカーの乗り場があった。天守門も発掘調査がはかばかしくなく、奥州白石城の天守門をコピーした様だ。
戦国時代には天竜川の対岸を見張る見張り台ぐらいがあったのみだろう。掛川城に火が掛かれば解ったはずだ。
松下屋敷は頭陀寺あたりだそうだが、玄黙口下にも上屋敷があったとのこと。玄黙口は後に自動車を通すクランクした道が作られたが、その脇に原型をよく残している。元浜橋も家康公在城時にはあの辺りに「御船蔵」があったということで、怪しげだ。現在の水面が標高2mかそこらなので、下流に閘門を作れば、海に出られるはずだ。高町の秋葉山には「山家三方衆屋敷」というのがあったそうだ。山家なので秋葉山三尺坊大権現の眷属が屋敷を構えていたのだろう。
毎朝天守閣に参集する高齢者の中には「お城趣味」という人も居ろう。しかし戦国時代、天守閣に殿様がおって、戦の下知を下す、というフィクションにはついていけない。それよりも城北1丁目のUホールのあたりには「硝煙蔵」という地図もあり、滝野川の硝煙蔵同様、どこかを切って落とせば水没する仕掛けだっただろう。その上の「賽ヶ崖」も外堀の工事が中断された後としか見えない。天守閣よりも市内中心部は家康在城時の縄張によって形作られており、現在もそれが受け継がれていることを明らかにしてほしいものだ。
by dehoudai
| 2017-10-10 19:00
| きせつ
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