2017年 09月 20日
福地桜痴集 |
福地櫻痴集
明治文学全集
というものがあるので、どうしてアベシンゾーくんは戦争ヤリタイなのか、明治人の目というか、元幕臣の目で眺めてみようということで福地櫻痴集を繙いてみた。
福地桜痴先生は森山多吉郎の門人、幕末明治の外交現場に立ち会った人だ。当時の外交交渉がどのようなものだったかは
大君の都
オールコック著
山口光朔訳
岩波文庫 1962
などからもうかがえる。文久元年(1861年)7月9日(舊)東禅寺襲撃事件の事後処理ならびに開港延期について老中安藤信行との談判に及んだのだが、極秘条項に及ぶので内々にとして、余人を退けて老中と英国公使との膝詰め談判に及んだ。すると話はスルスルと解けてゆき、これまでの何年掛かっても一歩も前に進まなかった、役人を居並ばせての交渉は、実は儀式であって、老中も事務方が纏めた答弁から一歩も外れることができなかったことが明らかになった。この日居合わせたのはただ二人、先方の蘭語通詞マイベルグ氏と森山多吉郎だ。
福地源一郎君21歳は、同年派遣の遣歐使節には通詞として従ったが、オールコックは膝詰め談判で才能を発揮した森山を重視し、幕府の選に漏れた森山を、自身の帰国に同行させ、使節団に合流させている。
上掲書の年譜によれば福地源一郎君は使節団と別れて滞歐、歸朝すると将軍上洛に伴い水野筑後守忠徳に随い大阪へ出張。幕臣としての地位昇進するとともに、大いに用いられんと欲したるも、言動自由不羈にて用いられず。政治外交の建言も採用なし、不平の余り花柳界に出入。幕臣のまま下谷二長町に語學塾を開くが、間も無く禁止。以下上掲書の年譜によれば
慶應3(1867)年 27歳鳥羽伏見の戦いに先立ち京都進撃戦略進言、不採用。戦破れて海路帰京。慶應4(1868)年 28歳4月「江湖新聞」発刊、佐幕的立憲政治論を唱う。5月筆禍、無事釋放。この年限り幕府を辭し、文筆にて衣食す(著譯各種)。
その後
明治3(1870)年 30歳澁澤榮一の紹介にて伊藤博文と會見し、意氣投合。大藏省御雇となり、伊藤に従い、渡米。明治7(1874)年 34歳「東京日日新聞」主筆、明治9(1876)年 36歳、社長明治15(1882)年 42歳立憲帝政黨結黨明治21(1888)年 48歳「東京日日新聞」退社
あたりまでが絶頂期だろう。小林清親の「銀座街日報社」は明治9年とあるので、福地源一郎君絶頂期のものだろう。西洋建築に見えるが蔵造りで窓が少なく、ここで暮らすと病気になるものが続出したそうだ。福地桜痴君は大暴れをするので、敵も多かったらしい。櫻痴というのは”OUCH!”のもじりかもしれん。
その後
明治23(1890)年 50歳団十郎と意気投合、歌舞伎座の作者として立つ。脚本の作甚だ多し。明治24(1891)年 51歳「幕府衰亡論」明治39(1906)年 66歳、没
二度の勝ち戦で日本人がセンソウダイスキになった頃だ。私の父は満2歳。
「幕府衰亡論」冒頭には三方ヶ原の戦いで脱糞した家康公の計略が記されている。OUCH先生によれば
諸侯に対するに厳重なる憲法を制してこれを授け、苟も少にても是に違う者あれば、容赦なくその領地を削り、或は国替えを命じ、あるいは改易に處して毫も絮する所なかりき。
御譜代御家門にても詰まるところは親を以て疎に代わらしめ、諸大名を代謝せしむる間に漸次に廃絶を行い、遂に諸侯なからしめて封建の跡を斷つに至ること家康公の初心にして、即ち遺訓の大秘計なりき。
というわけで近日世上に「忖度」の言葉を見るが、幕藩時代250年というもの、将軍の意向を忖度せねば諸侯といえども廃絶の危機にあったのだ。
特にアベシンゾー君にあっては、京都以西は皆毛利家の領地であったものが、関ヶ原の戦に負けて萩に逃げ込んで以来、270年にわたって嫉刄を研いでいたのである。戊辰戦争で天下を取ったからには、海内ことごとく長州人のもの、と考えるのが自然であろう。
長州人にあらずば人にあらず。コクミンノミナサマは二等国民。
解散権のない内閣総理大臣が、モリもカケも届かぬうちに、名分の立たない解散をするなど主権在民とは真っ赤な嘘偽り、国会は国権の最高議決機関ではなく、この国は内緒話が動かしているのであるっ。嗚呼馬鹿馬鹿しい。
おばさんが可愛い男の子にまたがって体内のたんぱく質を吸い取ったということで、どこぞの政党からお払い箱になったが、議員は辞職しないと言っておる。馬鹿馬鹿しいということでますます投票率は下がり、アベシンゾー君の思う壺だ。
要はアベシンゾー君は西国から来た進駐軍のボスなんだね。「思いやり予算」付きで沖縄を米国から来た進駐軍に進上して、土人が騒いだら蹴散らすくらいのことは平気だ。
遠州浜松は出世城と言われるが、徳川家康も三河から来た進駐軍なので、踏付けられた方にはろくな話が伝わっていない。さらに浜松衆と岡崎衆の間にも内訌があり、武田と通じたなどと勿体をつけて、築山午前が殺されたのも、浜松と岡崎の主導権争いだという説もある。毛利元就が三本の矢の教えを説いたのも、説く必要があったから説いたのだ。
by dehoudai
| 2017-09-20 12:54
| ほん
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