2017年 08月 27日
中国人の街づくり |
郭中端・堀込憲二
都市住宅1976-1980
相模書房 1980
台湾の街並みについては
日本植民地建築論
西澤泰彦
名古屋大学出版会 2008
があったのですが、これは大家正論の大著で「ちょいと」という本ではありません。
あたしゃ建築論に入る前の「日本の植民地とはいかなるものだったか」というあたりでくたびれてしまい、放り出してしまいました。そしてもっと読みやすい本を探して行き当たったのが本書です。
大家正論はそれとして、雑誌都市住宅の連載が底ネタというわけで、全体が再編集されてはいるのですが、どこから読んでも構わない、みたいなのも読みやすいです。目次は
・西門町
・廟市
・亭子脚
・厝
・風水
・移民建築
となっています。
「厝」というタイトルで、まあ「民家」と言った主題が取り上げられています。厝という時はクオと読むようです。
高尾で泊まったホテルのあたりを、昭和の初め頃の地図で見ると三塊厝という村になっていることから出くわした字です。日本だと「三軒家」みたいな地名があるかもしれませんが、中国式の村は家が一軒ごとに離れているのでなく、家の塊が三つある、という出来方をするのかもしれません。
本書では農家が街屋になるについての考察が載せられています。 静岡県の宿場などにも共通する通り土間に沿った平面ですが、奥のサービス部分が包丁の柄のようだということで、菜刀型と呼んでいます。そこで面白いのはこれが2階建、3街建になっても、そのままの形で重層化してゆくようです。
販厝・公寓・大厦は、まあ時代ごとに現在の集合住宅の型が出来てきた歴史となるでしょう。公寓というのは日拠時代の官舎を取り壊して3-4階建てにした頃の呼び名のようです。
「寓」という字は日本の街角でも目にします。江戸時代にはお国替えとともに「君命により知らんところへ来ちゃったのヨ。」みたいな感じだったでしょうから「外省人」ですね。今は東京一郎くん式に「社命により転勤」みたいな、
住宅が人間を作る、ということからすれば、著者も「和風住宅で出来上がった人」と言えるでしょう。リービ英雄君と同じです。ご両親はそれぞれに自分の育った住宅を元に、住まいなるものを構築してゆくのでしょうが、子供たちは両親の「住まい方」だけでなく、建物からも住まい方を学んで来たはずです。
元々は土足で設計されており、「靴脱ぎ」がないのですが、階段室で靴を脱いで上履き、という向きもあるようです。
雑誌連載が1976年-1980年とのことで、その後40年で台湾人の住まい方・暮らし方がどう変わったか、という読み方もできそうです。
都市型併用住宅の例として大渓古街が取り上げられているので、本書原文掲載後の40年でどう変わったを、GoogleStreetViewで見てみます。
確かに本書に述べられたような明治・大正・昭和の、メダイヨンを掲げた建物があるにはありますが、若者にとっては
ああ、あそこのコンビニの奥ね。
そして近隣からの産物が集まる商業地も、高速道路を前提とした流通近代化に対抗する手段は観光地化ぐらいであるようです。地元の住民が大渓古街から6kmほど離れたカルフール=家樂福の平鎮店に行くようになってしまうと、観光地化と言っても活気が下がってしまうような気がします。
自動車が昔ながらの街並みを窒息死させるのは何も台湾に限りません。浜松と同様、ロンドンでもブリストルでもボストンでもバンクーバーでも、深刻な同じ問題に直面しています。
170901
本書には風水の続きで園林建築が取り上げられています。その中で台南歸園が紹介されていますが、本書の挿絵を見るとまことに近代的なもので、子供の頃に読んだ
Lander’s Cottage
Edgar Allan Poe
にある、細い谷間に降りてゆく道の描写、池の描写などを彷彿とさせました。米国人にも林泉という感覚があることを知って面白かったです。
大渓の最近の話題は相撲の土俵ができた、とのこと。
by dehoudai
| 2017-08-27 20:57
| ほん
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