2017年 08月 05日
解らん街 |
青井哲人先生は南国の空遠く、臺灣國彰化県彰化市の街並みを歩いていて、大発見をしたのですが、現在GoogleMapで現場を探しても見当たりません。
孔子廟が建て直されて公園となる際に取り壊されてしまったのかもしれません。うろついているとスクーターに跳ね飛ばされそうです。
孔子廟が建て直されて公園となる際に取り壊されてしまったのかもしれません。うろついているとスクーターに跳ね飛ばされそうです。
台湾の街路は蒋介石さんがやってきて、名前を変えてしまったので、これも街並みを分かりにくくしています。中山路・三民路・光復路ぐらいまでは良いとして、中正路あたりからおかしくなってきます。
台北だと成都路・重慶路・昆明路・桂林路・廣西街・長沙街となって、蒋介石さんの敗走の道のりをたどるようでありますが、地域の歴史とは関係ない名前は、わらじ履きで鍋釜を担いだ中華民国軍の「老兵」が、割り当てで(多分日産接収を伴って)住み着いたような感じもします。
さて浜松市内にも台湾ほど大規模ではありませんが「?」という歴史の痕跡はあります。GoogleMapで浜松市神立町を探して見ましょう。ホースシュー=馬蹄形の地境をしています。
もともと神立町は舊長上郡蒲御厨の中心部で、蒲神明宮があります。源範頼が「蒲の冠者」と呼ばれるのは、蒲御厨に腰を落ち着けたからです。
それがどうしてこのU字型の地境になってしまったかというと、戰國時代に蓮如上人を中興の祖と仰ぐ一向宗一撥が諸国にあり、駿遠三では今川、織田、徳川の諸將を苦しめた痕跡なのですね。
浜松では酒井將監が蒲神明宮の社前に東海道を遮断する形で立て籠もったのであります。一揆衆は「進足者往生極楽世界 退足者堕落無限地獄」と記した旗を兜の真向に打立て奇声をあげたのですが、結局酒井將監は今川氏眞を頼って駿府へ逃避し、一撥側の敗北となったのです。しかし地境だけは將監町として今に伝わっています。
町村合併のたびに地名が地域住民とは関係ないところで決められ、担当者の思いつきみたいな地名が作られるのは歴史破壊ではないでしょうか。袋井市下山梨が「月見町」になってしまうのもそんな例かもしれません。まあ平民からすれば戦国時代のように、蓑首を取られないだけでもありがたいと思わなければならんのが、現在の民主主義国家日本国でございます。
by dehoudai
| 2017-08-05 12:11
| まちづくり
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