2017年 08月 03日
彰化1906年 |
先日は台湾国高雄市をうろついてくたびれ果ててしまったのですが、その理由を考えるうち、良い本に出会いました。
市区改正が年を動かす
青井哲人
編集出版組織体アセテート
大阪市立大学工学部建築デザイン気付 2006
という本です。私の学生時代には東の丹下西の西山と言われたものですが、代替わりしています。
西山夘三さんはその昔、建築学会の図書室でお見かけしたことがありました。図書室にお掃除のおじさんが入ってきて、パンと牛乳を食べていたので、ここでおじさんが昼飯を食うのだな、と思っていたら、内田雄造さんに「西山先生だよ。」と教えられてくれてびっくり。
青井哲人さんは1970年生まれということで、新進気鋭が関西の雄になりつつあるお年頃でしょう。
青井先生はまだ新進気鋭の頃、台湾国彰化の街をお散歩していて、ふと廟の壁を見て、雷に打たれたようなショックを覚え、それから多年調査研究の末に、植民地都市の一つの側面を明らかにしたのであります。多分。 上掲書所収
これもそれまでの研究の積み重ねがあったればこそであり、小生のようなシロートは、先日高雄の街をうろついて、暑さと湿気を呪い、街並みの訳の解らなさを呪い、くたびれ果てて昔三塊厝と呼ばれていた村のあたりの、海南島から来た若者たちで賑わうホテルに入館したのでありました。「厝(クオ)」というのは住宅のことのようで、ホテル裏手の旧制中学の前に出る道は古くからのもののようです。
その時に高雄の街の解らなさを象徴していたのが「鉄道園區天空雲台」という施設だったのですが、青井先生の本は、街の解らなさにどう取り組めば良いかの道しるべになるのであります。一昔前に赤瀬川さんとか松田さんとか南さんがが「トマソン」と称していたシロモノを、一つの学問にまで高めたと言って良いでしょう。
「鉄道園區天空雲台」の旧状は打狗鉄道故事館で頒けていただいた
打狗驛站100年物語
謝明勲
文化部文化資産局/高雄市歴史博物館/中華民国鐵道文化協會
青井学で高雄の街を読み解く手がかりは本書に収められている1908年打狗市區改正計画圖と1936年大高雄市區都市計圖から読み取れそうです。1908年の市区改正では対象地域は同年旧打狗驛から移設された新しい高尾駅周辺です。市街地は駅の西側の山の下ぐらいで、東南側は干潟のようなところだったでしょうから、今のように漁業補償も無い時代、土地収用もそれほど困難では無かったかもしれません。
1936年になると大高雄市區都市計画と称して、現在の高尾駅から海に至る広大な地域が計画対象となりました。土地収用事業費はどういう企画であったのかわかりませんが、昭和100年ぐらいまでの計画だったかもしれません。 1936年には浜松市でも最初の都市計画が定められています。翌年には盧溝橋事件という風雲急を告げた時代ですが、国権伸張の時代でもありました。平民の暮らしからすれば第一次大戦時の好景気で田舎にも文明期化の波が押し寄せ、モダンライフを夢見る人々もいたかもしれません。
驚くべきは1944年、つまり大高雄市區都市計が決定されたわずか8年後には、米軍が空爆用の精密な地図を作成していることです、様々な現地資料を入手した上で、航空写真と照合して作成されたのではないでしょうか。台湾は大日本帝国の版図ではありますが、住民は福建省とも行き来があり、中華民国に協力する熱烈な「愛国者」達も、知らぬ顔の半兵衛さんを決め込んで街を行き来していたはずです。
こうして彼我の地図を見比べると、日本の行政の「縦割り」ぶりがくっきりとして来ます。都市計画の情報は軍部には伝わらない、地形図の刊行は参謀本部に属するので、都市計画に際しては別途測量をしなければならない、と言った事態が想像されます。軍人が威張っていたのがいけない、というものの「総力戦」という割には行政各部局の連絡がさっぱりで「総力」がバラバラだったのではないでしょうか。
実は縦割り式は現在も変わらず、課税用の地図と都市計画用の地図は相互に連絡がないままそれぞれ予算をとって作成されているのではないでしょうか。
小生は飛行場から地下鉄で旧高尾駅に行ってみたのですが、下町というのがどこやら、さっぱり訳がわからなかったのは、同じような事情によるものでした。加えて地下鉄というのは地上の情報が入ってこないので、テレポートみたいなところがあって怖いです。 コンビニで地図を買って見てもさっぱりわからない。だいたいこの地図が旧高尾駅の操車場と陸橋が、未だにあるもののように描かれています。
どうやら台湾国も鉄道・地下鉄・航空・港湾・道路などが、現地住民お構い無しに、横の連絡も無く予算の奪い合いを演じているような感じです。ここはひとつ関一大阪市長に喝を入れてもらうのも良いかもしれません。
英国では17世紀にエンクロージャというのがあって、囲い込んだ土地は自分のものだ、ということになったようです。乱暴に言えばこの時の「地主」が貴族ということでしょう。なので課税用の地図がそのまま都市計画に使われているようです。課税用の地図を入手しようと思うと、A4ほどで1,000円ほどとえらく高い、それがGISでどうなったかというと、植木が一本ごとに記載された1/100でも1/500でも1/5,000でも1/50,000でも、自在に出力できるようで、あれは便利です。なるほど土地支配制というのはこういうものかという感じがします。
日本は水田稲作がベースなので、人間さえ動かせば、水とお天道様と土地は天からの授かりものという水田稲作です。
小麦+牧畜による粗放農業に比べて、単位面積当たりの土地生産性が100倍に達する高密度農業なので、土地支配制ではなく人頭支配制となります。「植民地」と「いじめ」もそれぞれこれに基づくようです。なので土地所有が重視されたのは「沽券にかかわる」市街地に限られ、農地の「所有」には無頓着なところがあったようです。それが地図の作成にも引き継がれているのではないでしょうか。
by dehoudai
| 2017-08-03 19:54
| まちづくり
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