2017年 06月 15日
聖観音 |
台灣糖業博物館
高雄市政府文化局/台灣糖業股份有限公司
高雄市橋頭區南里糖廠路24號
http://www.tscleisure.com.tw/museum/
軍人、政治家、大学教授に挟まれて、一番裏表が無く、優しそうな目をしているのが鈴木藤三郎さんです。台灣人からすると新渡戸稲造博士は時々「造」が抜けてしまうこともあるようです。
鈴木藤三郎さんが若い頃に作ったという、15cm程の「立身出世した時の自分の銅像」なるものが、遠州森町の随松寺に収められています。立身出世というのがいかにも明治の話です。 若い頃「お前にやるよ。」と言われた友人が、後に困り果てて仏壇にお祀りし、それも代が替わってさらに困り果てていたところを、和尚さんが見かねて寄進してもらったのだそうです。 ところが鈴木藤三郎さんが成功した時に作ったのは自分の銅像ではなく、薬師寺聖観音の四体の写しでした。 もともと物作りが好きで、横浜で茶商をやって成功すると「こんぺい糖製造」も研究します。そして砂町に製糖工場を作って、これも成功。
そして台灣製糖の初代社長に就任します。台灣から見ると「台灣糖業之父」とされているのですが、博物館でいただいた「台糖株式会社百年史」を眺めていると、聖観音の向こうの空に、当時の雲行きが見えるようです。
資本金100万円で出発
台湾製糖は台湾総督府の保護奨励と井上馨公爵ほか有力者の後援を得、三井・毛利両家を初めとする投資家の内諾を取り付け、資本金100万円(2万株)を持って設立されることとなり、発起人として三井物産合名会社専務理事益田孝、日本精糖(株)専務鈴木藤三郎、同社社長長尾三十郎、三井物産合名会社理事上田安三郎。毛利家家令田島信夫、元ハワイ公使ロベルト・W・アルウイン及びアルウインが推した元ハワイ公使館員武智直道の7名が目論見書に名を連ねた。
とあります。鈴木藤三郎さんは発明少年で、特許も数多く持ち、精糖会社をやっていたので、三井家と毛利家の番頭連が
あれを使おう。
ということになったのではないでしょうか。雲の行く果てには後年のサッカリン疑惑の背景も透けて見えるような気がします。サッカリン疑惑は鈴木藤三郎さんが味噌を輸出しようとし、防腐剤としては害のないサッカリンを使ったところ「台糖の砂糖にはサッカリンを入れてある。」という根も葉も無い噂がどこからか広まって、ついに台糖を引退、失意の内に亡くなったというものです。雲の流れを凝視すると噂を流したのがどの方面か、わかるような気がします。
Japanese Laborers on Spreckelsville Plantation
Joseph Dwight Strong, 1885
はWikipediaには private collection所蔵とありますが、台糖が所有しているそうです。官約移民契約でハワイにわたった農民を待っていたのは、馬に使う鞭で「農奴」に指図をするスペイン人だったそうで、三井家と毛利家の番頭連が考えていたことが解ります。
台灣糖業博物館の説明には聖観音は
、、、1902年、故郷を遠く離れた日本の従業員を慰めるため、そして台灣農民が製糖會社への求心力を高めるために、、、、奈良薬師寺の聖観音像に倣って鋳造されたもの、、、
とあります。しかし私には「土匪討伐隊」を作り、銃眼のある建物と弾薬庫を備えたところで役には立たず、観音様の仏恩にすがるしかないという思い、馬上から鞭で指図をするスペイン人の元で苦労を重ねた、官約移民の「農奴」たちをはじめとする、製糖業に関わった全ての人々への思いがあるような気がします。
鈴木藤三郎さんは現場の人であり、上から「農奴」を見る三井家・毛利家の人々とは目線が違っていたのでは無いでしょうか。
保存されている製糖廠を見ても、そこが焦熱地獄だったことが想像されます。 サトウキビの粉砕機に落ちて命を亡くした人もいたかもしれません。 溶解炉の中は105℃だったとのことですが、冷房のない時代に作業場の室温も相当なものだったでしょう。
毛利家はアベシンゾー君の在所であり、三池家は戦費の無い幕軍と官軍の両方に金を貸して、勝った方を自由に操った明治の妖怪です。日本銀行といったところで、本店は三井家の裏庭に立っています。
聖観音が黒いのは、どこかに埋め込まれた宝石を隠すため、という説があるそうですが、発明少年だった鈴木藤三郎さんは、毛利家・三井家といった妖怪たちによって自らも粉砕機に入れられ、溶解炉で、黒焦げになっていたのかもしれません。
by dehoudai
| 2017-06-15 15:00
| まちづくり
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