2017年 02月 12日
太陽国 |
雪国では吹き降りのところもあるようだが、太陽国では風は強いものの、部屋で日に当たっていると芽が出そうだ。
次姉は幸子といい、今年は確か米寿だ。永平寺のお線香と日高支庁浦河町永田幸子氏作の飯鮓を届け、昭和12年の話を聞く。父の勤務先が吉林から通化に変わり、情勢不安なので帰れ、ということで幸子は芳川小学校へ転校、その折に永平寺へ寄ったのだそうだ。
昭和11年2月26日の後、古山家の暮らしも目まぐるしく変化する。
昭和11年4月新京西広場小学校に入学したが、9月に久一が吉林に転勤。2学期には吉林に転校。吉林では官舎がなく、回廊の付いた大きな家に住んだ。
「人の言うことを聞かない子」なので「キカンジュー」というのがあだ名だった。現地人の子供と喧嘩をした挙げ句、やりを投げられて顔に傷を負ったことがあった。日本人の医者は居なかった様で、母が「台湾人のお医者さんで大丈夫だろうか。」と心配していた。
昭和12年7月(蘆溝橋事件の当月)には当時最も治安も悪い通化に転勤となり、芳川小学校に転校のため北鮮廻りで内地に帰った。
この頃、龍井市生まれの尹東柱君は昭和11年平壌の崇実中学校(プロテスタント)に入学するが、神社参拝問題で廃校とされ、昭和12年夏には日本人経営の光明学園中学部に学んでいる。
昭和11年、福島県新地町磯山では聖ヨハネ教会が出来ている。
アンモー
ホッシー
サトボー
であったような気がする。ホッシーは雪国では作るのが難しそうだ。舞阪の亀屋パンには1円のアメと5円のアメを売っていた。5円のアメは巨大だったので、あれを喉に詰まらせたらあの世行きだと怖かった。10円のコッペパンと20円のコッペパンも作っていたが、20円のコッペパンは巨大で一度には食べきれなかった。
そこへある日「パラソルチョコ」なるものが登場したのだ。なんと30円だったが、食べてみると「都会の味」がした。それまではお菓子も地産地消だったものが、急速に近代化が進んだのだろう。アンモーも地域というより、時代の流れで一旦は消えて行き、地元の菓子屋が消えてから、今ではヤマザキが作っているのだ。
先年農協祭りみたいなところで、サトボーを売っていたので買ってみたが、記憶にあったほど甘いものではなかった。
by dehoudai
| 2017-02-12 18:59
| たべもの
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