2017年 01月 26日
焼津港 |
午前5時の気温-0.5℃だったが、天気良く、暖かくなりそうだったので、オーバーを着ずに焼津へ向かう。
電車の窓から遠くに天狗国が見える。
電車の窓から遠くに天狗国が見える。
内港には第2はやぶさ丸 焼津港 というのが入っていた。巾着網の船であろうか。煙突には大手水産会社のマーク。 東北大震災の後で宮城県漁連が
何とかしてくれ。
と言ったら、
大手に頼めヨ。
と言われて戦闘状態になってしまったのと同じ構図か。かくてTPPであろうが、なかろうが、「津々浦々」という言葉は消えてなくなり、すべての漁船は小林多喜二の「蟹工船」と同じ運命をたどる。青森港にも同じマークがあった。
正月だろうか、青竹が立っているのが、せめてもの救いだ。はやぶさ丸というのは第五福竜丸がその後練習船に使われた時の名前だそうな。
新港入り口には「E TABU TE RIN IKAI」という謎の看板があったが、「国語常用」というわけで、警察車両には焼津語の標語が。その昔手漕ぎの小舟の間をかき分けて進んだ発動機船の船方衆が、そのまま高齢化して、通りを闊歩しているのだろう。
もち鰹あります
潮風に磨かれた女達には良い女が多い。釣師のみっちゃの奥様など、初めて見かけたときには男子高校生かと思ったが、良い女だ。
うちの人の獲った魚をその値で欲しけりゃ、おととい来な。
という感じ。
男は帰ってくると「今日は敵の首をいくつ取った。」と威張るばかりで、酒を飲んで寝てしまうから、食べ物を手に入れて食事の支度をするのは女の仕事だ。
というのと同じで、これまでの漁村は実は女が支えていたのだ。「おととい来い。」は落語のセリフだろう、という人が多いかもしれない。しかしあれも実はおととい1,000円/kgだったものが今日は3,000円/kgという暮らしの中から出てきた、浜言葉ではなかろうか。
舞阪ではベルツ先生が長崎への往復で常宿にしていた、という江戸時代からの医家、浜松医大招致の折の医師会長の御嬢様が「おっかちゃ」をやっていたが、すでに癌で逝去。癌研の部長かなんかやっていた弟が家業を継いでいる。
巻網のことを「巾着網」というが、英語だと"Purse Seine"だそうな。訳語ではなく、別々に同じ言葉が出来たのではなかろうか。
大海原で魚と一騎打ちをして、勝つのが労働の喜びであったものが、浜から女が消えて、モニターで株価を眺めるだけの、魚より巾着の好きな男達が、漁業の未来を支配すると、漁村が消え、工業文明の崩壊が近づきつつある。
もち鰹あります
by dehoudai
| 2017-01-26 19:55
| 静岡県の町並み
|
Comments(0)