2017年 01月 11日
もろーど様 |
NHKの大河ドラマで引佐町をやる、ということでヤコニン連は大張り切り、天守門の次には能舞台を作るだの、看板を新調するだの、年貢をやたらにつぎ込んでいる。
「精霊の守人」の方は国籍不明だが、大河ドラマの方はそうはいかない。紀尾井坂というのは紀州・尾張・井伊の屋敷があったから呼ぶのだそうで、まったくの作り話というわけにはいかないのだ。
引佐町は地形が四神相応の地で、
北:城山
東:御岳山
西:尉ヶ峰
南:稲荷山
とそれぞれに鎮山が座っている。ご誕生の井戸の近くに下水処理場があるのは出来過ぎだ。
初回ではおとわちゃんとつる君とかめ君が遊ぶシーンの一部に、天白磐座遺跡のようなものが写っていた。引佐町内にはあのような岩があちことにあるのだろうか。
天白磐座遺跡からは4世紀後半の祭祀遺物が検出されているそうだ。継体天皇が6世紀の人らしいので、それより200年ほど古いことになる。
中川村に条里制の遺構が残るように、都田川・神宮寺川流域は県内でも奈良時代には水田稲作の先進地であったように見受けられる。稲作が山中の棚田から河川下流の水田に移行し、古墳を作ることのできるまでの生産性を上げるためには、単なる農業技術けではなく、社会制度の変革がテーマだっただろう。
渭伊神社の御祭神は天白磐座遺跡すなわち「もろーど様」と伝わるそうだ。教育委員会では、なかなか手がつけられないだろうが、「もろうど様」という響きは「まろうど様」と似ており、「来訪神」であるかもしれない。
春とともに山から下りてきて、夏の終わりまで里にとどまり、冬とともに山へ帰る、という稲作の神様の、そもそもの始まりが「もろうど様」つまり「来訪神」であり、それが井伊谷だったと想像してみる。
男は「今日は敵の首をいくつ取った。」と威張るばかりで、酒を飲んでは寝てしまうから、食べ物を手に入れて食事の支度をするのは女の仕事だ。
というのが世界各地に見られる男と女の姿だが「もろーど様」が稲作をもたらした「来訪神」であれば、女神だったかもしれない。そのあたり大河ドラマではどう描くのだろう。
もしかすると「井伊」というのは「渭伊」というのは「飯」であったとも考えられる。そう考えれば「井伊谷」は「飯ノ谷」であったかもしれない。
もうひとつ山を越えてみよう。棚田が稲作の標準系であった頃、稲作が「飯谷」から「飯田」へ伝えられたことだってあるかもしれない。米を食おうが、芋を食おうが豆を食おうが、人間の生存に不可欠な塩を伊奈谷へ運び入れるには、遠州か三州からが一番近い。その「塩の道」を通って、芋よりも豆よりも栗よりもはるかに生産性の高い米が、井伊谷から伊奈谷に運ばれたことも無理な想像ではないだろう。
大河ドラマのつる君が逃げたのもこのルートだ。14世紀には南朝方の宗良親王が伊勢から「奥州宇陀の湊」へ向かい、難船したために井伊谷に入っている。井伊谷龍潭寺には宗良親王陵があり、坂下門外の変の後、井伊谷神社が作られた。
しかし井伊谷で崩御というのは敵を欺く作戦で、親王は遠山谷に逃れて大河原の御所で信濃征夷大将軍を名乗ったという説を、ウィキペディアは紹介している。
先日は町内の東照宮にある公民館の竣工ということで「お城の権威」小和田哲男先生の講演があったが、大河ドラマでは「絵になるものにするために、史実を捻じ曲げている。」とお嘆きだったが、井伊家が4世紀から稲作を守る家柄であったからには、
男は「今日は敵の首をいくつ取った。」と威張るばかりで、酒を飲んでは寝てしまうから、食べ物を手に入れて食事の支度をするのは女の仕事だ。
というテーマでドラマに仕立てることもできただろう。まあ女と言っても御殿女中よろしく、殿様にお尻を振って軍人を振り回し「戦争は女の顔をしていない。」と言われる稲田ともみチャンみたいなのもおる。
by dehoudai
| 2017-01-11 12:31
| まちづくり
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