2017年 01月 06日
茨城県 |
曇りで気温が上がりそうもない。先日水戸を通りかかった時もこんな天気だった。
全国都道府県別魅力度ランキングというのをテレビでやっていた。
47位:茨城県
46位:栃木県
45位:群馬県
なのだそうだ。上位には
1位:北海道
2位:京都府
3位:東京都
4位:沖縄県
5位:神奈川県
というわけで、住みやすいかどうかの順位ではなく、イナカモンが遊びに行きたいところが並んでいる。北海道・沖縄は一昔前なら「土人が裸で踊りを踊る。」ようなもので、現在でも所得格差がそれを裏付けている。JR北海道が自力再建は不可能、という結論を出したのに付け込んで、プーチンくんが「宗谷海峡にトンネルを、、、」などと言っているようだ。
沖縄は相変もわらず米軍の直轄植民地であり「本土並み」が返還後の悲願40年である。
残りは「江戸は諸国の掃き溜め」といった大都市だ。ヨソモンが魅力を感じないので、のんびり暮らせる、となると北関東なのだろう。
茨城県の地政学上の雰囲気は
がわかりやすい。すでに安政4年6月(1857)武田耕雲斎は「夷狄に神の国土を怪我させてはならない。」からと英語学習を進言していた。小生が中学時代に英語を教わった齋藤謙三先生は水戸藩の出というから、この筋だろう。
しかし「勉強嫌いの暴れん坊、頭の空っぽな、お粗末な威張りやなど。今日の大学の体育部や運動部にも見られる」徒党は聞く耳を持たない。そうした子供達に桂小五郎なぞが五百両の軍資金を託し、若者達は耕雲斎を担いで元治元年(1864年)1月筑波山で「天狗党」を旗揚げ。子供を騙して天下取りの具に使うのは毛沢東の紅衛兵と同じだ。
水戸藩の悲劇は、藩主が江戸定府なので「江戸目線」と「国元目線」が常にぶつかりあった、ということもあろう。百間長屋で有名な江戸藩邸は明治三年造兵司-砲兵工廠に、さらに巨人軍の本丸に変わる。
御一新の後も加藤完治が満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を、内原に開設したのを見ても、東京という「上から目線」はあまり変わらないように見える。ひたちなか海浜鉄道湊線阿字ヶ浦駅前には広沢虎造の「満寿屋」の向こうを張って「満州屋」という民宿が今も営業中だ。
そして「鉄腕アトム」の時代がやってくる。テレビとプロ野球と原発は正力松太郎さんの3点セットなのだが、ここでも常磐筋は一番面倒なものを押し付けられる。
1974年の夏を新治郡八郷町柿岡の田んぼの中で過ごした。「消費者時給農場たまごの会八郷農場」の建設現場に寝泊まりしていたのだ。海辺の夏は当たり前という私にとって、人生で一番印象的な「夏」だ。
170107
その昔
本郷もかねやすまでは江戸の内
と言われたそうだ。板橋宿あたりは明治大正の場末だ。今となっては大宮も浦和も茅ヶ崎も東京の下町なので、小田原周辺も北関東自動車道路沿線も郊外住宅地だ。
東海道新幹線から見ると、東京駅から56km、小田原の15kmほど手前の山側にバブルの頃の郊外住宅地が見える。通勤手段は小田原厚木道路しかないようだ。東京の郊外住宅地なので、小田原駅周辺に出かけることもないのだろう。
何せ高圧送電線の下で値が出なかったらしい山の上なので、出入りは高齢者向きでない急傾斜だ。住民は自動運転車とコンビニのドローン宅配に未来を感じていることだろう。 それに比べれば柿岡辺のほうがまだのんびりしていそうだ。
これはビクトリア駅から15kmほど、Suttonの手前にある大きな緑地。公園や下水処理場や昔の領主の館などが繋がっている。
それに比べると東京は「すでに核分裂の段階を過ぎて核融合の段階なので、燃料を加え続けなければ炉心溶融を起こしてしまう。」というのが川上秀光先生の退官論集から受けた印象だ。
植民地には国土計画も都市計画もイラナイ、というわけで、東京はジャカルタやバンコクに似たアジアの都市なのだね。韓国が気の毒なのは産業近代化だけで、内戦のために社会の近代化が行われなかったところだ。
そう考えると日本での1990年代以降の「金融解放」は、国策企業を植民地宗主国の現地企業に組み替えることだったと気づく。
by dehoudai
| 2017-01-06 11:40
| まちづくり
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