2017年 01月 02日
冬の旅3 |
というわけで連絡船のつく港を見学しようと思ったら、いきなりマルハの看板が。日露戦争で日本が北洋漁業の操業権を獲得して出来た、日魯漁業の漁業基地でありましょう。
1972年に朴正煕さんの軍事独裁見物に韓国へ出かけたときには、下関の出国検査で担ぎ屋のおばさんを相手に、係官が戦前と変わらない「オイコラ。」をやっているのを見たことがあります。出国検査を厳格にするのは入国検査に比べると意味がない、と思いましたが、その昔にはここでも「オイコラ。」とやっていたのでありましょうか。
青函連絡船には中学校のときに一度だけ往復したことがあります。1962年頃かと思います。まだ
青函連絡船には中学校のときに一度だけ往復したことがあります。1962年頃かと思います。まだ
北へ帰る人の群れは誰も無口で
1861年建設開始
1987年供用開始
2016年新幹線開業
というわけで悲願100年でありますが、バブルの到来とともに北海道の魚は貨物列車ということになり、焼くと白くなる塩鮭も食卓から姿を消してしまいました。あれを再現するには、2日前に水揚げされた市販品の塩鮭に、追塩をして冷蔵庫で2週間ほど置けば良いのです。
1962年には長いホームを歩き、階段を上がって、長い陸橋を歩く間、人混みの中で同じ年の従兄弟にはぐれないよう、気が気ではなかった覚えがあります。慣れた風を吹かせていたその従兄弟も、今は故人であります。
1972年には半島南岸の田舎を走る汽車の中で、結婚式の帰りらしいご一行に乗り合わせ、良いご機嫌のおじいさんに
学生さんは日本から来たのか?
ワシは北海道まであちこち行ったことがあるぞ。ミツイスナガワじゃ。
と自慢話を聞かされたこともあります。
絶筆
平泉金色堂
昭和32年
川瀬巴水
この辺りから北上川が南流します。
北上川は
幹川流路延長 249km
流域面積 10,150km2
流域内人口 約138.9万人
MLIT
ケセン国まで行って、プラザホテルの露天風呂から復興の様子を眺めようとしたら、空室がありませんでした。まあ東京へ避難している子供が孫を連れてきて、仮設住宅から年寄りを呼び寄せて露天風呂に入っているのかもしれません。
というわけで仙台のシティホテルへ。ここでも
この辺りでmecha味噌の美味しい店は?
と聞くと
?
というのがお答えでした。ケセン国の元住人に聞いたら
仙台の人は「岩手県気仙沼市」と思ってるそうです。
とのこと、文化圏が違うのですね。なので定禅寺通り近くの「評判の店」で牛タン。
金売吉次はケセン国は本吉の住人だそうです。
by dehoudai
| 2017-01-02 21:47
| まちづくり
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