2016年 12月 21日
飯田線 |
高校同級のH君が「春休みに飯田線に乗ろう。」と言っていた。
図は「渡らずの橋」だが、ここ以外にも最高時速20kmという区間があちこちにある。
H君へ
春休みに飯田線に乗ろう、ということだが、2017年2月14日ならば、旧暦1月18日に当たるので、水窪町で西浦の田楽がある。朝東京を出れば、昼前に豊橋着なので、半日飯田線を乗り降りして、夕刻どこかで拾ってあげることができる。田楽は夜明かしなので、翌日は天竜峡か飯田へでも出て泊まればば良い。
良い歳をして試験監督でもあるまい。
私は中井侍ー小和田ー大嵐(おおぞれ)間の斜面が見てみたい。付近に道はなく、対岸から見るしかないのだが、GoogleStreetViewだと木の葉が邪魔になってよく見えない。唯一のビューポイントは大嵐駅に通じる橋の上だ。 GoogleStreetView
森 信勝
静岡新聞社 平成9年
によれば、ここは
「本区間測量中最も困難を感じたる天竜川に沿い路線を選定すべく限定させられ居りたる為、断崖絶壁の中腹を通過するの止むを得ず……足場悪く命綱を岩又は樹林に結び昇降する箇所多く、且つ小沢以南に於ては付近に人家乏しく測量隊根拠地を得るに窮し、小和田白神間にあっては対岸佐太に設け、毎日約2里(約7.8キロ)を往復するの止むを得ざる状態なりし、のみならず殆んど通路なく僅かに山道の稀れにあるのみなるを以て進歩意の如くならず、故に北海道旭川市付近に住居し鉄道測量に経験あり山間潤歩に熟練せる「アイヌ」人10数名を召致し之れを混用して大いに好結果を得たり。
この報告書にあるアイヌ人は、酋長川村カ子トが率いる同族で、北海道や朝鮮の開発でその測量手腕が知られていた。ロープに身を託し岩山によじ登り深い谷を飛ぶように渡り、野猿やイノシシの脅威と戦いながら仕事を進めていったアイヌ人酋長の話は、鉄道関係者の語り草になっている。川村はのちに旭川アイヌ記念館主に就任し、昭和35年67歳のとき飯田北線管理長に招かれて飯田市を訪れ歓待されている。
二俣線は日米決戦に向けての東海道本線の平行線だが、こちらは地元で資金を集めた私鉄として始まっている。電力会社・鉱山会社からも出資を募ったそうだ。
古川鉱業の久根鉱山は大正6年17万トン、久原鉱業の峰之沢鉱山は大正5年5万トンとあるが、これが大砲の速射を可能にした当時の最新技術、真鍮の薬莢となり、それまでの戦争とは2ケタ違う数百万人の戦死者を作り出したことも、地域住民には知らされない。
by dehoudai
| 2016-12-21 13:00
| まちづくり
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