2016年 12月 04日
三倉蔵雲院 |
飯田町龍谷寺で薬師瑠璃光如来の縁日。
イチョウがきれいです。
イチョウがきれいです。
恒例のさるまわしは見ず。昨晩話をしたのでヨシとします。
村崎修二さんが「人生論」の公演なのですが、この人火がつくと止まらなくなってしまいます。 放っておけば何時間でも演っていて、そのうち心臓周辺の大動脈が破裂して成仏、となるので、頃合いを見計らって和尚さんがオショーストップ。
上の図は新年不祝儀詫状の部分拡大。
戦後の戦災復興から住宅ブームまでは、造材で賑わったのでしょうが、終戦まではどんな暮らしをしていたのだろう、と感じます。
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帰り道、気がついて向天方へ向かいました。地域ごとの「土地柄」というのは、明治22年郡区町村編制法の頃の区割りを見るのがわかりやすい気がします。
新しい家はどこへ行っても「モダンハウス」が立ち並んでおり「地域自慢」にはなりません。
明治22年には森町村が周辺の村々を合併して森町に、明治31年には山梨村が山梨町になっています。蔵雲院は大鳥居なので明治22年には天方村に編入されました。
森町の大田川左岸には向天方村というのがありました。天方城の城の下です。城下村というところもありますが、これも「城」というのは天方城を指すのでしょう。
というわけで天方城址へ行ってみました。展望台があるので、登ってみると実に見事な景色です。秋葉山と同じく遠州灘を一望できます。
大河ドラマの「真田幸村」は「国衆」なるものの描写から始まっていますが、説明を読むと、天方氏は戦国時代を通じて今川・北条・武田・徳川という「国盗衆」の間にあって、ひたすら地域を守ろうとしていたようです。徳川時代になっても「あいつは油断ならない。」ということだったかもしれません。
城址は堀を巡らした立派なものです。駐車場に檻を乗せた軽トラックが数台停めてあって時折、ずどんずどん、というてつはうの音が響き渡っていました。冬眠前の太った害獣を駆除しているのでしょう。天方村の国衆は今なおてつはうで国を守っているのです。
帰りに見ると檻の一つに老犬が留守番をしていました。家で留守番をさせるのは可哀想だが、戦場へ出るのは無理な歳、ということでしょう。村崎修二氏も戦場に出ると何時間も戦い続け、大動脈瘤破裂で成仏してしまいそうで、今は檻の中です。
by dehoudai
| 2016-12-04 19:41
| まちづくり
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