2016年 11月 30日
40年前3 |
1975年3月東洋大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了
ということになるが、実は「たまごの会八郷農場」でデークをやっていた、というのが真相だ。給料をもらうのが怖いので、親にたかっていた、というのがさらなる真相である。さて、いつまでもそんなことを続けているわけにもいかないので、自活せねばならん。
7年ほど東京で暮らしてみて、東京でなければどこでもいいや、みたいな感じもした。東京で暮らしていると、物事の全体像が見えにくい感じが嫌だったのだ。「鶏頭となるとも龍尾となるべからず」といった大それたものではなく、全体像が見えないところで給料をもらうと、いわゆる「歯車」になってしまうのが嫌だったのだ。
たまごの会八郷農場には2人の女が訪ねてきたことがある。磯部みち子さんと平松克子さんだ。今年の夏には久しぶりににみち子さんから電話があり、浜名湖を一周してきた。URTECの卒業生だった御夫君飯島君を数年前に亡くされ、のんびりやっているらしい。平松克子さんはこの経済能力のないやつと暮らしているおかげで、日々税務署と戦い続けている。
「浜松か静岡あたり」と考えていたら、指導教官の大田邦夫先生が、
静岡に高木慈生君がいるが、
というわけで
1975年4月高木慈生建築設計事務所勤務
となる。平松克子さんの在所が静岡市だったのだ。
確か年収120万円余であって、広告会社だの、グラフィッックデザイン関連他業種の新入生の、半額ぐらいだったと思う。それなので1976年4月に
給料を2倍くれ。
と言ったら、
君は手に負えないから、まちづくりとか、他の仕事をしたほうがいい。清水にそんな仕事をしている人がいるから、紹介してあげようか?1年以下の勤務だと、退職金は出せないことになっているが、その代わりに来月分の給料をあげるから、25日に取りに来なさい。
ということに相成った。
市内の時計宝石店で貴金属工芸の職人をしていた克子さんに尻を叩かれ、求職のふりをして、わずかばかりの失業手当をもらった。失業手当は切れたのを幸い、朴正煕の軍事独裁見物に出かけた。
帰ってくると克子さんから呼び出しがあり、呉服町の谷島屋書店の裏にあった喫茶店へ行ってみると、
子供ができた。
というのであるね。「これはめでたい。」と嬉しかった。すぐに自宅に電話をして、父に頼み、
御宅のお嬢さんをうちの息子に。
というのをやってもらった。
平松正一氏は
こういうことは男が責任を、、、
という決まり文句を述べ、家尊は
いや、半分はお嬢さんの責任。
とこれまた決まり文句を述べ、小生は正座したまま無言で頭を下げていた。
その間に一級建築士の実技試験が名古屋であり、高木事務所の面々と二日酔いの頭を抱えて製図をやったり、
クソ熱い盆月に結婚式をやるなど、どこの馬鹿だ。
という顔の神官に静岡浅間神社で祭式をしてもらったりと、実に忙しい夏だった。
さてどうやって食おうか、仕官も嫌だしなあ、と頭を抱えていたら、高木慈生建築設計事務所1期上の一ノ瀬さんが
一緒にやらねーか。
と声をかけてくれた。高木設計では「100万貯めて世界旅行。」というのが伝統になっていて、皆金を貯めていたのだ。一ノ瀬さんも諸国漫遊から帰ってくると、すでに高木設計のワークステーションは消えていた。しばらくあちこち回ってみると、パチンコ屋の仕事がありそうだ、ということで私に声をかけてくれたわけだ。給料出すより共同経営者という方が気が楽だ、ということであろう。
私の同期では半年で帰ってきたくれちゃんもいれば、2年近く帰ってこなかったOくんもいた。Oくんはスペインから初めて南北両米大陸に渡り、最後はリマ郊外の飲み屋街にある、飲み屋のオネーさんのアパートに沈没していたそうだ。そして
たまには情報を仕入れねば。
と、不良日本人の溜まり場を覗いてみると、そこで沢田研二の「勝手にしやがれ」という新曲がかかっていたのだそうだ。この歌を聴いて電撃ショックを受けたOくんはオネーさんのアパートをこそこそと逃げ出し、その足で日本に帰ってきたのだが、あの時あそこであの歌が流れていなければ、Oくんは今も南米のいずこかで飲み屋街のポンをやっていたかもしれない。
Oくんからは出掛けに炊飯器を預かったのだが、帰ってきてみると独身だった私は3人暮らしになっていて、これまたびっくりしたそうだ。
一ノ瀬さんと会社を作る時「環境設計」という屋号を考えた。単に建築を設計するのでなく、建築設計を通して、地域環境を作り出すような時代が来るだろう、という考えであったが、今にしてみれば如何であったろう。
当時のパチンコ屋はまだ千円札でベンツを買うような家族経営の時代で、天井裏の玉樋が詰まって天井が落ちたり、隣地との間の90cmほどの隙間にエアコンの屋外機をずらりと並べたら、屋外機の吸排気がショートして店内が大変なことになったりと、様々な事件を体験した。釘師に特等席に案内してもらい、いくら玉を入れても1-2分で無くなってしまうので、私にはその道の才能がないのを知ったのもその頃だ。
数年の後には環境設計浜松支所も面倒なので、足を洗って自分で事務所登録をすることになる。なので生まれてこのかた給料というのは1年しか貰っていない。まあバブル期だからできたことだろう。
後年大学2級上の畏兄Iさんが「東京へ来い。」と呼んでくれたことがあり、給与振り込み、というのがあったが、これも1年で逃亡している。仕事の内容というより「東京嫌ペン。」だったのだ。
by dehoudai
| 2016-11-30 07:55
| まちづくり
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