2016年 09月 27日
御前崎 |
岬に通じる道。
港はあれども、、、というのが今の日本の津々浦々の景色だ。「近代化」ということで、漁業も生業だったものが奴隷労働になりつつある。シメはTPPである。 いつどこで取れたかわからない魚しか無くなって「日本料理」も無いもんだ。
港はあれども、、、というのが今の日本の津々浦々の景色だ。「近代化」ということで、漁業も生業だったものが奴隷労働になりつつある。シメはTPPである。
日本人が「魚を食う」という時には、単に魚肉を食べているわけでは無い。その魚の取れた海、という環境を賞味しているのだ。私など「舞阪産」「新居産」「福田産」「御前崎産」くらいなら港から見た情景が目に浮かぶが、「鹿児島県産」「福井県産」となると見当がつかない。「インド洋産」「ノルウェー産」「チリ産」となると、その魚の取れた海の情景を思い浮かべることはできず、タダの魚肉と化してしまう。
津々浦々という言葉はそういうことを指しているのであって、他所の魚を賞味したければ、一度はその魚の上がる港へ行ってみて、そこの環境を賞味してみるべきではなかろうか。
西洋三教では「地上に神の国を広げよう」となって、世界中で同じものを食べるのが文明なのだが、日本ではこの港の神様と、隣の港の神様は違っていて、それが豊かさなのだ。豊年満作というのは炭水化物がたくさん取れたことを言うのではなく、地域の環境が美しく保たれていて、人々の暮らしが平安である結果、今年も米が取れたことを言うのだ。
TPPの一次産業にとって一番怖いところは、産地住民の生活を破壊して奴隷労働に貶め、地域環境を破壊する点だ。何のことはない20世紀までの植民地の時代の焼き直しであって、そこから地球を救うのは津々浦々という日本語しかないぞ。
しばらく前、若者に小林多喜二の「蟹工船」が人気だ、という記事があったが、そこに描かれた昭和の初め、近代的な工船システムで運用したのは特殊な世界で、日本人が食べていた魚のほとんどは、その日に採れた地先の魚だった。
そのあたりのわからぬ奴が
オリンピックで日本料理のグローバライゼーション。
などとはしゃぐのはちゃんちゃらおかしい。根本が分っていないのだね。
御前崎沖で海難した白馬がたどり着いたところが駒形堂だそうだ。残りの99匹は御前岩になったとのこと。 釣り針をなくした神様が「海上安全・大漁満足」のために祀られている。そういえば隅田川から一寸六分の観音様をおすくい申した檜前浜成・竹成兄弟も漁師であるね。
もとをただせば侍そだち
腕はじまんの千葉仕込み
なにが不足で大利根暮らし
というから、さぞかし利根川流域か、水戸方面の人が書いた詞かと思ったら、さにはあらず。しかしこの辺りにも足軽の倅ながら、民活導入で徳川家を破滅から救ったにもかかわらず、田安家のオボッチャマンに疎まれて追い落とされた殿様がおられたので、月を眺めて慨嘆する侍も居ただろう。
by dehoudai
| 2016-09-27 19:19
| まちづくり
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