2016年 09月 02日
渡東瀛2 中華街 |
渡東瀛2 中華街
開国後も華人に対しては、単純労働者は入国禁止、といった、様々な制限があった。そこで「三把刀」と言われる人々が活躍した。裁縫刀、剃刀、菜刀の技術者だ。その後横浜・神戸に比べると、地理的な条件優位はなくなった。
横浜中華街で古くからテイラーを受け継ぐ張輩揚さん、祖籍は寧波、横浜でもう百年以上になる。当時は上海の方が洋服の技術は上だったので、シャンハイ・テイラーで売った。上海で修行したおじいさんは英語が話せた。当時は外交官などの御用も結構あった。
南京町というと南京大虐殺になっちゃうので、中華街にしたんじゃないの。林康弘さん、聘珍楼7代目。英語でしゃべる、ということは日本語>英語>華語か?
開国後の横浜には中華料理屋が20軒ほど、聘珍楼は1884年創業。最初に来たのは広東人。
買弁というのは信用が第一。戦争で仕事がなくなり、日中開戦で敵国人に。小学校で体育の先生が
あなたたちの体は誰のものですか?
と聞くので、
身体髪膚受之父母不敢毀傷孝之始也
みたいなことを言ったら
支那人はこれだからしょうがない、あなたたちの身体は天皇陛下のものです。
by dehoudai
| 2016-09-02 17:20
| むーびー
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