2016年 09月 01日
稲取 |
縮地の術を使って稲取まで行ってきた。驚くべし、6:20に新幹線に乗ると、8:25には稲取についているのだ。少し前まででも朝出て昼着く、といったところだっただろう。
コンセントは増えたが、トレードオフは全車禁煙。少し前までは3号車と16号車が喫煙車だったものが、今では車掌室の横の留置所のようなところに入らなければならないのだ。まあ飛行機のトイレでタバコを吸って、緊急着陸などさせると、えらく金がかかりそうなので、我慢しなければならない。
江戸時代から東海道沿いは艱難辛苦を重ねて地域振興、という土地柄ではない。何も気候温暖なだけではない。参勤交代というのは西国の大名に江戸まで出てこさせて、その出費で軍事力を削ぐ、という制度なのだが、街道筋の村々は居ながらにして他国モンをしゃぶっておればよかった。
富士の裾野は葦原で「浮島ヶ原」と言われる通り、東から海沿いの砂丘の下を進んで来た東海道は「左富士」眺めつつ、富士の裾野へ取り付いたところが吉原だ。戦後「浮島ヶ原」の排水施設が整備され「土地ならあるよ。」というわけで、首都圏からの工場進出が進んだ。
熱海からは下田行きに。
伊東線開通が1935年ということで「伊豆でゴルフ。」の元祖だろう。 1998年4月橋本首相とエリツィン大統領がこの辺りのホテルでナイショ話をしたが、ナイショ話なので、内容は分からない。しかし同年11月には
領土問題は平和条約の後。
ということになってしまった。シンゾー君がハバロフスクに行ったからといって、北方四島がどうなるものでもあるまい。
川名駅前には濟廣寺というのがある。大きな榧の木が生えている。伊豆の国は平安時代には「木の国」であったようなところがあり、「来宮」も「木宮」なのだそうだ。
竹山道夫の「ビルマの竪琴」の連載が始まったのが1948年だそうだ。1961年に伊豆急が開通すると、海の彼方に消えた人々の縁者が思いを寄せたのだろう。
最近はビルマではなく、ミャンマーになってしまったからねえ。
ということであった。軍事政権幹部にも日本軍の薫陶を受けた人が混じっているはずだ。スーチー女史の父君アウンサン将軍は、英国の圧制から祖国を解放するために戦った人であり、浜名湖畔に潜伏していたこともあるそうだ。当時の大東亜共栄圏の事情はタイでも同様で「クーカム」という劇映画もヒットしている。
仏様をお守りするわんこも色とりどりに塗られている。近年本国では仏教徒がイスラム教徒をいじめているそうだが、こやつの眷属かもしれない。
このお寺も鎌倉建長寺の末だそうだ。伊豆には建長寺の末寺が多い。源頼朝が伊豆から鎌倉へ移る時に付き従った縁だろう。寺というのも当時の学校であり、病院であり、情報機関でもあった訳で、鎌倉と伊豆が一体であったことがわかる。
by dehoudai
| 2016-09-01 12:07
| まちづくり
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