2016年 08月 17日
梅衣 |
一藤山の家苞に梅衣を頂だいたので、早速食べなければならない。
冷蔵庫に入れると、硬くなるから、常温で置いてください。
との口上付きだった。とろりとした甘い蜜に包まれているのは、防腐剤なのだ。
紫蘇の葉も防腐剤なら梅酢も防腐剤だ。昨今のように石油由来の防腐材を入れて「開封後は冷暗所に保存」と断り、さらに冷やしても硬くならぬよう、柔軟剤を上乗せするのに比べると、なんと優雅なことか。
梅衣とは、明治維新に遠州森町で造り始められております。紫蘇の菓を梅に漬け風味を増し、当時、紫蘇巻として好評でした。
明治三十年小松宮殿下が森町を始め、太日出金剛院を御視察された析に紫蘇巻を御賞味の光栄に賜り現在の梅衣と改名されました。
その後、明治四十三年昭憲皇太后陛下が岡山犬演習よりお帰りの際静岡にて御買上げを賜り、又沼津御用邸よりたびたび御用命に賜って現在森町銘菓として広く皆様の御進物、お茶の友とよろこばれております。
今後其末長く御引立の程、お願い申し上げます。
主人敬白
町制100周年記念写真集 森町 1989刊
如何様にして、明治維新に遠州森町で造り始められたのかも興味がある。
慶応四年正月三日、鳥羽伏見の変が起こり、大総督宮が東下すると、平田学派を主とした多くの神主が参加し、遠州報国隊を結成して官軍に付き従ったとあり、隊員には周智郡一宮村一宮神主小国重友、山名郡山梨天王社神主佐仲幸雄、などが見られる。(明治維新における静岡県勤王義団事歴)
尊皇攘夷の人々であり、水戸にも同志がいたやもしれない。志賀重昂が森町を「遠州の小京都」と呼んだには、このような面もあるからだらう。東海道五十三次が徳川幕府の情報システムならば、脇往還と秋葉道の交差点である森町は、徳川幕府とは別の情報システムの結節点だった。秋葉山自体が役小角に縁があり、往古からの情報システムの拠点である。
by dehoudai
| 2016-08-17 10:01
| たべもの
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